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宏兄――野江宏章は、ぼくの五歳上の幼馴染。
野江家っていう、有名なアルファの家系の生まれで、上にお兄さんとお姉さんがおるんやって。ぼくが五歳のとき、ご兄弟でセンターに遊びに来た宏兄と出会って、仲良くなったんだ。
センターへ遊びに来る子はいっぱいいたけど、ぼくと友達になってくれたのは、宏兄が初めて。ぼくにとっては、大事なお兄ちゃんみたいな人や。
「おーい、成ー!」
『うさぎや』と店名の入ったワゴン車に凭れて、宏兄はぼくを呼んだ。その良く通る声に、道行く人が振り返っては、ぎょっとしたように見ていく。
彼らの気持ちはわかるんよ。
だって、よれよれのシャツと地味なチノパンやのにな? 人並み外れた長身のせいか、きれいな顔のせいか、宏兄ってすごいゴージャスなんやもん。
本人は人の視線もなんのその、子どもみたいに手を振ってるから余計に注目されちゃってる。
――もう! 宏兄は天然さんなんやから……
ぼくは笑いを堪えつつ、宏兄のそばへ駆け寄った。
「宏兄、なんでいるん? ひょっとして、お見合いとか?」
「馬鹿、違うよ!」
ふざけて尋ねると、宏兄は顔一杯で笑いながら、ぼくの頭をわしわしと撫でた。
「こないだ店に来たとき、今日は検診だって言ってたろ? 近くまで来たんで、迎えに来た」
「やったあ! わざわざありがとう、お兄ちゃん」
ぺこ、と頭を下げる。「調子いいやつ」って小突かれて、くすくす笑った。
でもな、実は見かけた時点で「もしかして?」って思ってました。宏兄は世話焼きで、あっちこっち、よく迎えに来てくれるから。
――にしても、ぼく、検診の話なんてしたっけ? ……宏兄、よう覚えてるなあ……
楽ちんってことより、ささいな会話を覚えてくれてるのが嬉しい。
なんべん言うても約束を忘れる婚約者に、内心でパンチをお見舞いしとったら、宏兄に不思議そうな顔された。
「どした、成?」
「あ、ううん! なんでも」
「そうか?」
「さあ乗れ」と言わんばかりに助手席のドアを開かれ、ぼくはありがたくお世話になることにした。
「おじゃましまーす」
車内は、なぜか八百屋さんみたいな匂いがした。見ると、後部座席にスーパーの袋が雪崩を起こしてて、レタスからしたたる水滴が、花柄のクッションに染みを作ってる。大ざっぱな宏兄らしい――ぼくは慌てて、袋の格好を整える。
「お、ありがとな」
「ううん。宏兄、買い出し行ってたん? 手伝ったのに」
「店のじゃなくて、俺の分だから。この近くで安売りしててなー」
運転席に大きな体を押し込むように、宏兄が乗り込んでくる。
「よーし。じゃあ、店まで安全運転で行くぞ」
「はい、お願いしまーす」
大真面目な顔でハンドルを握る宏兄に、敬礼で応える。その瞬間、はかったように「きゅう」とお腹が鳴った。真ん丸になった宏兄の目と合って、頬が熱くなる。
「なんだよ、可愛い音させて」
「け、検診やったから。朝から何も食べてなくて」
何のツボに入ったのか、宏兄がくっくっく、と喉の奥で低く笑う。
恥ずかしくなって言いわけすると、大きな手が頭に乗っかってきた。
「よしよし。店ついたら、なんか作ってやるよ」
「えっ、ほんま? ナポリタンでもいい?」
「ナポリタンでもカツでもいいぞ」
「わあ……!」
手放しに喜んでから、はっとする。にやにやする宏兄は、きっと「子供っぽい」と思ってるに違いない。
「もう。すぐ子ども扱いするんやから」
「いやー、そんなことないけどなぁ」
「絶対、ウソ!」
笑い声と共に車が発進し、ゆっくりと景色が後ろに遠ざかった。
まだ梅雨なのに、いいお天気だ。窓を突きぬける日差しに、頬がじりじりする。
「宏兄、ちょっと風入れてもいい?」
「いいぞー」
宏兄にことわって、窓を開ける。
エアコンと違う爽やかな匂いの風が、車内を通り抜けた。夏の陽気にすこし汗ばんでいた肌が、一気に涼しくなる。
――きもちいい。首輪がなかったら、もっと涼しいのになぁ。
とはいえ、首輪はオメガの項……尊厳を守る生命線やから、仕方ないんやけどね。
窓に寄り添って涼んでいると、宏兄がため息を吐いている。
「どうしたん?」
「いや。子供じゃないから、性質悪いんだよなぁって」
「?」
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