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真木食堂。
時生の祖父が始めたときは、普通に食堂だったらしい。が、父が継いで、父が地元の蕎麦に目覚めて蕎麦屋にした。
その蕎麦屋の奥に家がある。平屋の古い家だが、祖父母がまだ存命だった頃にバリアフリーにして、その後、しばらくして祖父母が亡くなり、時生が事故を起こしたので、家自体は時生にも優しい作りになっている。
倫子が来ることになって、時生はもちろん両親も緊張して家を大掃除した。
彼らも倫子に会いたがったが、店もあるし、後で顔だけ見せると追い払うことに時生は成功した。
倫子はラフなカジュアルスタイルでやってきた。
「僕の部屋はこっちで」
玄関からすぐ脇の空間に、時生は入った。
「ガレージだったとこを改良してて」
入ってすぐのところには、オフロード用の車椅子が置いてある。そのキットや工具もあって、雑多なものが棚に積んである。
反対側に机があって、机の脇にはベッドがあった。ベッドの周りにはカーペットが敷いてあって、その向こうには、家の中につながっている引き戸があった。
倫子はそういう景色を眺めた。珍しいものがたくさんあって興味を惹かれたが、今日はあまり詮索しないようにと自分を戒めていた。
靴は脱いでも脱がなくてもどちらでもいいと言われた。一応入口に砂落とし用のマットがあって、そこでサトルはルームシューズに履き替えるという。サトル用の恐竜の形のスリッパが置いてあって、倫子は少し迷って、客用のスリッパを借りた。
壁の目立つところに世界時計とりっぱな鹿の角が対で飾ってあって、倫子は部屋に入ったときから、そこに目を釘付けにしていた。
「それが、僕にぶち当たってきた鹿の角」
時生は説明するまでもないと思ったが、一応伝えた。倫子はうなずいていろいろな方向から角を見た。
「大きい……ですよね。写真とかは残ってます?」
「事故のときの?」
「はい」
時生はそう言われて、首をかしげた。そういえば何かあったかも。久しく触っていなかった棚の奥を探って、クリアファイルをめくった。
「バイクのはある。保険とかで使ったような」
時生は写真ではなく、カラー印刷した紙を彼女に見せた。
倫子はそれをじっと見つめた。眉間にシワさえ寄っているように見えた。
「倫子さんって、ときどき刑事みたいに見える」
時生が言うと、倫子はハッと我に返った。
「父が警察官で、その癖がうつってしまってるかもです」
「え、幌戸警察ですか」
「はい」
「刑事?」
「え? 何か悪いことでもしてます?」
「いや、そういうのではなく」
時生は慌てて否定した。事故のときに関わった人だと気まずいなと思っただけだ。
「鹿の写真はないです。たぶん、うちにある資料はこれで全部だと思うけど、親にも聞いておきます」
「お願いします。鹿も死んでたんですよね」
「はい、僕はそう聞いてます」
「ふうん……鹿、何キロぐらいだろう……」
「どうかな、でかかったとは聞きました」
「実物は見てないんですね?」
「うん、見てないです」
「バイクで死ぬのかな……とは思ったり」
倫子がつぶやくように言うと、時生は目を丸くした。
「死んでたらしいですよ」
「で、下敷きに……ん……なるかな。即死? わかんないですよね」
倫子はじっと状況を考えながら言った。
野生動物は意外と強い。打ちどころが悪かったらわからないが、中型バイクとぶつかって即死するシチュエーションは珍しい気がした。しかも時生はバイクと鹿の下敷きになっていたという。普通はバイクやライダーが衝撃で飛ばされることが多い。重なりあって落ちる事故も珍しいなと倫子は思った。
「そんなに気になります? もう死んでる鹿ですよ。生きてたら、インタビューもできるかもですけど」
時生が冗談めかして言うと、倫子は時生を見た。
「いえ、本当なのかなと思って。この角から想像すると、体重100キロぐらいありますよね。それが目の前に突然飛び出して来たんでしょう?」
「うん、たぶん」
「時生君は何キロで走ってました?」
「どうだろう、細い道だし、5−60とかかな」
「減速する余裕はありました?」
「本当に刑事みたい。いや空中みたいなもんなんで、なかったです」
「当たった瞬間は覚えてないんですよね?」
「はい、瞬間……はなんとなく。その後は全然」
「鹿とバイクの下敷きでしたよね?」
「バイクと鹿の。何かおかしいところあります?」
時生が困惑して聞くと、倫子はどう言えばいいのか迷うような顔をした。
「ぶつかって飛ばされたのなら、状況が変な気がします」
「僕は嘘はついてません」
「はい。だから、不思議で」
「うーん」
時生は少し考えた。
そして角を見つめた。
「僕、家族にも言ったんですけど、三途の川っていうか、天国っていうか……に行ったんですよね」
「え?」
倫子は目を丸くした。
時生は倫子を見て、それから戸惑うように目を伏せてから、自分自身の記憶に首を傾げた。
「たぶん、夢なんですけど。死神…か、閻魔様か、天使かわかんないんですけど、とにかく誰かが話し合ってて、死んでるとか死んでないとか言って、僕は頭がふわふわしてて体が浮いてる感じがしてて、生きてるって言いたいけど何も言えなくて、どこかに連れて行くって誰かが言って……結局運ばれたかどうかは覚えてなくて」
倫子は目を瞬いて、時生の奇妙な話を聞いた。
「それ、運ばれなくて良かったパターンですね、きっと」
「ですよね、たぶん」
時生は苦笑いした。それから付け足す。
「たぶん、足元引っ張られたんですよね、あの角に。角に助けられたっていうか。敵だけど恩人……みたいな」
時生が壁の角を指さして言うと、倫子は角を見た。
「あの、時生君」
倫子は時生に向き直った。
「はい」
時生も角から倫子に視線を移す。
「鹿は大嫌いになりました?」
「ん……ていうか、動物って飛び出すんだなって恐怖が大きいかな。車でも前の席は苦手です。何か飛び出してきたら嫌だから」
「そうか……。鹿肉、食べて克服できました?」
倫子が聞いて、時生は明るく笑った。
「肉になってると別ですね。やっぱり。倫子さんは猟も行くし、解体もするんでしょ? そういう根性はないので、尊敬します」
時生は血だらけになって汗を拭う彼女を想像した。
「いえいえ、お手伝いだけなので、メインはプロの方がやってくれます」
倫子が大きなジェスチャーで否定したので、時生はそれを見て笑った。
「事故の後、気持ち的に変わったのは、本当にすごく臆病になったことです。急な音も動きも苦手になりました。事故のときも、そんぐらい慎重に運転してたら、ぶつからなかったのかなって、ちょっと思ったりします。あんまり反省モードに入ると、凹むので考えないようにしてるけど、たまに思います」
時生は言葉を選びながら、ゆっくり話した。
「って思えるようになったのも、最近で、あぁ……だから食べようって思ったのかな。なんか、こう、自然に返りたくなったというか、食う食われるの世界がやっぱ正しい気がして」
倫子はうなずいて聞いていたが、時生が最後にヘラっと笑ったので、つられて笑った。
「それが共生ですかね。違う気もするなぁ」
時生はそう言って、首をひねった。
「でも、私よりもずっとフラットな感じがします。人が偉いとか動物が偉いとかじゃない感じが、すごくします」
「敵ですからね」
時生が言って、倫子は笑った。
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