ただこの時に、全てをかけて、君に託す

1/4

5人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
「ちんたら走ってんじゃねえよ!」  長距離の練習が終わるや否や怒声が響く。  二年生の鍬田が同学年の安瀬に掴みかかりそうな勢いでにじり寄っていた。  駅伝を目前に控えた冬場のグラウンドを吹き抜ける北風は、気温以上に冷たい。 「手ぇ抜いて走ってんじゃねえよ! そんなんだから高校の自己ベストを未だに更新できねえんだろ!」 「手を抜いてなんてない」  肩で息をしていた安瀬が立ち上がり、至近距離で鍬田とにらみ合う。眼鏡をかけてひょろりとした安瀬は弱気な印象だけど、刺々しい雰囲気を放つ鍬田相手に一歩も引かない。 「手を抜いてないならなおさらやべえよ。これくらいの設定、余裕で走れないと駅伝じゃ勝負にならない」  鍬田の言葉に長距離部員全体の空気がザワリとする。確かに今日のメニューを設定どおりこなせたのは俺と鍬田だけだったけど、安瀬だって最後に少し離されたくらいで全体では3番手だ。鍬田の言葉は部員のほぼ全員に突き刺さる。  これ以上は決定的なほどに空気が壊れかねない。あと二週間後に駅伝を控えた今、そうなることは控えたかった。 ――たとえ、俺達の走った結果に誰も関心がないとしても。 「鍬田、体力が余ってるならちょっと付き合え」  グラウンドの外に向かって走り出すと、鍬田は何か言いたそうな表情をしたものの結局何も言わずに後をついてきた。それなりの強度の練習後だというのに、ブレの少ない綺麗なフォームとリズミカルなピッチ。  どれだけ苦しい状況でも淡々と走り続ける鍬田は、うちみたいな弱小の陸上競技部のなかでは良くも悪くも浮いた存在だった。  エース。十数年に一度の逸材。  俺が入部してから四年間、そんな言葉が与えられたのは鍬田しかいない。 「調子はどうだ?」  隣に並んだ尋ねてみると、鍬田は怪訝な顔をする。「怒らないんですか?」とでも聞きたそうな表情だったけど、少し考えてから鍬田はその言葉を飲み込んだようだった。 「悪くないです」 「だろうな。この調子なら、四月には自己ベスト出してくれそうでホッとしてる」 「ホッとですか? 沢目先輩、四月にはもう卒業してますよね」 「ここまでくると、自分より後輩が今後活躍できるかの方が気になるんだよ」  四月からは陸上競技とは何の関係もなく就職する。だから、俺にとっては今度の駅伝が全力で臨む人生最後のレースになるし、関心はすでにその後――来年以降の後輩たちの活躍に移っていた。  隣を走る鍬田が何かを言いたそうに口を開きかけては閉じる。いつもは思ったことをすぐにはっきりと口に出す鍬田には珍しい仕草だった。やがて、何かに観念したかのように息を吐き出す。 「沢目先輩。俺達って、何のために走るんですかね?」  鍬田が口した問いかけは、想像していた内容からかけ離れた内容だった。  何のために走るのか。  その問いは苦しいときほどよく頭の中に湧き上がってくる。なんで苦しい思いしてまで走ってるんだろう。ここで足を止めれば楽になるのに。  そんな誘惑をねじ伏せて、ここまで走ってきた。それができた理由は、正直自分でもよくわからなかった。  苦しいレースが終わるといつの間にか次のレースのことを考えていて、ひたすらそれを繰り返しているうちにここまできてしまった。そんな感じ。 「……俺が走る理由と鍬田が走る理由は違うんじゃないか?」  結局、毒にも薬にもならない答えしかできなかった。中学で陸上を始めたから、十年近く走り続けてきて、自分が走る(りゆう)がない。だから、結局最後まで中途半端な選手だったのかもしれない。  俺は四年間かけて、うちの陸上部になにか残せたのだろうか。 「俺は、勝つために走ってます」  鍬田は息の乱れも何もなく平然と言い切った。  だろうな、と思う。インターハイ入賞などの数々の実績を引っ提げて鳴り物入りで入部した鍬田が部内で一番速くなるのに時間はかからなかった。  前を走るものはもちろん追随も許さない獰猛な走り。練習でさえ気を抜けばその気配に喰われそうになる。 「だから、今度の駅伝は何のために走るのか、まだ自分の中でも固まってなくて。箱根みたいにシード権があるわけでもないですし、駅伝よりトラックの練習した方がいいんじゃないかって」  鍬田の言葉にギリッと胸の奥の方が痛くなる。再来週の駅伝は地方予選も兼ねた大会で、優勝すれば来年の全国大会――出雲駅伝への出場権が与えられる。  だけど、うちの大学は優勝争いなどまだ夢の話で、対外的には十位内が目標と言いつつ、実態は襷を最後まで繋ぎきれれば上等というレベルだ。  多分それは、鍬田の言う「勝つための走り」にはほど遠い。だけど、それならずっと気になっていることがあった。 「鍬田はさ、どうしてとりたてて強くもないうちの大学に来たんだ? 鍬田の実力だったら引く手数多だっただろ」  歴代の優勝校を見るとそのほとんどが私立の強豪校だ。強いから選手が集まってくるし、選手が集まってくるから強い。一方で、うちのような国立大は駅伝に必要な七人を集めるのにも苦労する年がある有様だ。  勝つために走るなら普通は強豪校に進むと思うけど、鍬田は高校駅伝の県予選が終わると、受験勉強に切り替えてうちの大学に入学した。当時、どうして鍬田がうちの大学に進んだのかが話題になっていたことを今も覚えている。 「俺はっ」  そこで鍬田が口をつぐむ。なぜか伺うように俺の顔を見て、前を向いて、それからまた俺の方を見た。 「俺は沢目先輩がいるから、ここに来ました」
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加