ただこの時に、全てをかけて、君に託す

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「沢目先輩っ!」  沿道からのマネージャーの声ではっと我に返る。  駅伝当日、襷を受け取ってから夢中で走っているうちに、二週間前のことを思い出していた。  沿道に目を向けると、マネージャーの焦った顔が見えた。 「この1km、2分50秒です! ペースが速すぎます!」  途中で二人抜いたけど、そんなペースで走ってきたのか。どこか他人事みたいな感じがした。体は軽い。調子はいい。だけど、気持ちが焦っている。  襷を受け取った時点で二十二位。五区の安瀬が来るのがあと五秒遅ければ、先頭から十五分差がついて一斉スタートとなっていた。  普通に走ったら鍬田が掲げた十位という目標はもちろん、襷をつなぐことも厳しい。 「沢目先輩!」  マネージャーの悲鳴なような声に、軽く手をあげて返す。せめて、この襷だけは次の区間で待つ鍬田に届けなければいけない。  落ち着け、背中を追うのは慣れてるだろ。そう自分に言い聞かせる。いいか、沢目。いつもはもっとえげつない奴の後ろを走ってきただろう?  これまでになく調子がよさそうな体を信じてペースを維持する。また一人、前の選手を抜いた。だけど、俺が相手にしているのは既に視界から消えてしまった先頭の選手。そいつから五秒以上離されてはいけない。  これまでの実績から考えれば不可能だけど、だからどうした。  肩からかけた襷をぎゅっと握りしめる。その襷はところどころ血が滲んでいた。  襷を俺のところまで届けた安瀬は満身創痍で、腕や足から出血していた。安瀬は途中まで十位から十五位の集団で走っていて、前に出ようとした後ろの選手と交錯して転倒していた。  そのまま走り続ければ、来年以降に響くかもしれない。安瀬はこれからもチームに欠かせない選手だし、棄権するように沿道に待機しているサポートメンバーを通じて呼びかけたのだけど。 『途中でやめろなんて、沢目先輩からだけは言われたくないです』    中継所にやってきた安瀬はボロボロの笑顔で俺に襷を渡した。一斉スタートの五秒前、間に合う保証もないままそれでも諦めずに安瀬は走ってきた。  だから、この襷は絶対に鍬田に届けなければいけない。このレースが終わったら二度と走れなくなってもいい。もしかしたらこれまでの陸上人生は、この襷を繋ぐためにあったのかもしれない。 「先輩! ここまで区間賞ペースです! お願いします!」  沿道からの後輩の声を背に受けて、また前を一人抜く。沿道からの歓声がわっと沸き起こる。まだ足りない。ひたすら前を追う。もしかしたら、これが鍬田がいう勝つための走りなのかもしれない。  前に、前に、ただひたすら前に――   「沢目先輩! ラスト1km! 繰上げまであと三分です!」  無我夢中で走ってきて、8kmがとても短く感じた。  三分ならスパートをかければ間に合う。この襷を鍬田に届けられる。 「っ!?」  不意に、ガクリと足から力が抜ける。  その途端、無理を続けてきた全身が悲鳴を上げる。本能に近い部分からの、もう走るなという警告。  関係ない。俺はこれでもう走れなくなってもいい。  襷を肩から外して手に巻き付け、握りしめる。歯を食いしばる。  だから、俺にこの襷を届けさせてくれ。この襷には、ボロボロになっても走ってきた安瀬の気持ちが詰まっている。ここまで走ってきたチームの思いがこもっている。 ――俺が走ってきた十年間が詰まっている。  それを全部、鍬田に届ける。この一本の襷の怨念のように詰まった想いを届ける。そして。 『鍬田が四年になる頃には、きっと戦えるメンバーがそろってる』  俺は、鍬田に、このチームに、未来を届けたい。 「おおおおっ!」  動かない体を声を張り上げて強引に動かす。  フォームがぐちゃぐちゃになっている。肺が裂けるように痛い。手にも足にも力が入らない。それでも、前に。  やっと中継地点が見えてきた。一斉スタートに向けて選手たちが並んでいる。時間はあとどれくらいだろう。いや、もうそんなこと関係ない。 「沢目先輩!」  鍬田が声を張り上げて呼んでいる。 「……ちんたら走ってんじゃねえよ!」  そう叫ぶ鍬田の顔は笑っていた。厳しいこと言いやがる。  だけど、勝気な笑みがはっきり見えるところまで来た。  襷を握り締めた手を鍬田に向けて精一杯伸ばす。 ――パンッ!  襷をのばした手が空を切る。号砲ととともに目の前で鍬田が――一斉スタートの選手たちが走り出す。  数秒遅れて、体が中継地点にたどり着いた。だけど、手に握りしめた襷は俺の手の中で。  どうして、襷がまだ俺の手の中(ここ)にあるんだろう。 「ああっ……!」  俺はこの襷を鍬田に届けなければ行けなかったのに。  ずっと繋いできた襷を、安瀬がボロボロになって届けてくれた襷を渡せなかった。 「あああああ!!!」  あと数秒。だけど、絶望的な壁がそこにはあった。  俺を慕って入部してくれた鍬田に最後まで報いることができなかった。  結局俺は最後まで中途半端だった。背中を追うだけで、前に出ることのできない選手でしかなかった―― 「先輩!」  向かい風に乗って、鍬田の声が聞こえてきた。 「届きました! ちゃんと、全部届きましたから!」  顔をあげると、鍬田が走りながら俺に向かって繰上げの白い襷を掲げていた。  せめてその襷に向けて、ここまでつないできた大学の襷を突き上げる。鍬田の姿はどんどん遠ざかっていくけど、鍬田が笑ったのがはっきりわかった。  まだ、レースは終わってない。鍬田は勝つことを諦めていない。 「行けっ! 鍬田! 俺達はまだ勝てるだろ!」  返事はない。その代わりに、白い襷を肩から下げた鍬田の姿がみるみるうちに小さくなった。
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