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「遅かったですね」
佳奈を母親に引き渡したのは、多嶋と一緒に夜勤をしていた岡崎翔子だった。まだ若く、正義感に溢れる彼女には、思ったことを何でも率直に口に出す癖がある。
案の定、母親は謝罪や娘の心配より先に、文句を口にした。
「仕方ないでしょ、仕事中はスマホなんか持たないんだから。それにここ、駅から遠すぎでしょ」
それも一理あると、多嶋は思ったが黙っておいた。
岡崎が腹立たしそうに言い放つ。
「タクシーを使うことだってできますよね。御自分のお子さんの事なんですよ」
火に油を注いだな――そう感じた。
予感は的中。母親はすぐさま苛立ちをぶつけてきた。日頃のうっ憤をぶちまけるように、岡崎に向かってまくしたてる。
「タクシー代を惜しむくらい生活はカツカツなの! だからこうやって遅くまで働いているんじゃないですか。残業をしなきゃ、正社員にはなれないのよ。それだけでも無理だって言われたのに。それに、子どものために夕飯だって用意してきているわ。私にこれ以上何を頑張れと言うの」
「まあまあ、落ち着いて下さい。佳奈ちゃんは、ただ暗い家に帰るのが怖くて、人の多い場所で時間を潰していただけなんですよ」
止めに入った多嶋を見上げ、続いてようやく、廊下の長椅子に座らされている自分の娘に目をやった。
「は、意味が解らない。時間を潰して、そこからどうやって帰るつもりだったの」
見下ろされた佳奈は、無言で母親から目を逸らした。
その後、必要書類への記入をしていた母親に、岡崎が説得するように言った。余程、さっきの態度が気に食わなかったようだ。
「家にいたくないというのは、お子さんからSOSなんです。だからお子さんの言葉に耳を傾けてあげてください。ただ母親業をこなすだけではダメなんです。お子さんの声を聞いて、愛情に応えてあげないとネグレクトも同じなんですよ」
それに対し母親は、怒りを含んだ冷ややかな視線を返しただけだった。
しかし、それから一か月もしないうちに、佳奈は再び補導されたのだ。
今度は昼間。学校があるはずの時間に、ランドセルを背負ったまま最寄り駅前の公園にいたところを警らの巡査に見つかり、そのまま学校に連れて行かれた。
三度目は町の中心地にある繁華街。
やはり母親とは連絡がつかず、迎えが遅くなると判断した多嶋は、自ら車で佳奈を送り届けた。
「なあ、なんで家を出たがるんだ。夜の町に小学生の遊ぶところはないんだぞ」
車中、佳奈は不貞腐れて黙り込んでいた。
「夜の町は怖くないのか。帰り道、河童にさらわれたらどうするんだ」
半分冗談めかして話しかけたが、返事すらしてくれない。
佳奈が住む団地は、新興住宅地の外れにある。住宅街に向かう坂を上らず真っ直ぐ進むと、田園の風景が広がり、田畑の中に古い村やいくつかの住宅地が現れる。団地はこれら集落とは少し離れた新しい道路沿いに建っているため、周りは寂しく人気が無い。夜遅く、小学生の児童が独りで歩いて帰るには、あまりにも物騒なロケーションなのだ。
「あんな話、マジで信じてるの。お巡りさんって、バッカじゃない」
道路の先に落窪団地のシルエットが見える頃、ぼそりとつぶやく声が聞こえた。
「いや、だって、幽霊が出るって君が」
「……幽霊とかお化けとか、そんなことより、もっとしんどいことがいっぱいで、マジ、生きていくのが嫌になる」
その台詞が多嶋の胸に突き刺さり、これ以上、説教じみた言葉をかけることができなくなった。
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