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しかし、十一時になっても母親は帰って来なかった。
「俺は帰るが、もう部屋を出るなよ。戸締りをしてさっさと寝るんだ。河童にさらわれないようにな」
脅すように言うと、佳奈が笑った。
「そんなのまだ信じてるんだ。大丈夫だよ、河童は子どもの味方なんだって、ユウカが言ってたもん」
「誰だ『ユウカ』って」
「ガッコの友達。すごく頭のいい子なんだ。でね、河童は子どものお願い聞いてくれるんだって教えてくれた」
困ってしまった。こういう時はどうやって言うことを聞かせたらいいのだろうかと。
「それでもだ。いい子にしていないと……」
言いかけてやめた。親に虐待されている子供らは、自分が「良い子」でないから悪いのだ――と考えがちであることを思い出したからだ。
情けなくも下手に出て情に訴える。
「河童よりも、お巡りさんの言うことを聞いてくれよ。もし佳奈ちゃんに何かあったら辛くなる」
佳奈は少し考えてから頷いた。
「うん、良い子にするから、また来てね」
上目遣いの表情がやたらと大人びていて、一瞬、どきりとする。
後ろ手に扉を閉めて、多嶋は大きなため息を吐いた。
(結局、『良い子にする』と言わせてしまったじゃないか)
すがるような瞳を思い出し、胸の奥が痛くなった。その胸の中では――もう十分、面倒なことになっている……と感じていた。
ほんの少しでも手を差し伸べてやれば改善する時もある。逆にいくら手を差し伸べようとしても、全く先が見えないこともある。この母娘は後者だった。娘は相変わらず夜遊びを繰り返し、そんな娘に母親は関心を示さない。つまり、何も改善していないのだ。
だからと言って今更、差し出した手を振りほどくことは出来ない。
階段を少し降りたところで、人影が見えた。
ふと、佳奈が言っていたことを思い出す。
――「団地に幽霊が出るの」
背筋に汗が伝う。ゴクリと生唾を飲んだ時、カンカンカン……と階段を上る足音が聞こえ、生きた人間であることに気づき、詰めていた息を吐いた。
(俺は馬鹿か)
子どもの話を真に受けた自分に呆れる。
人影の正体は、佳奈の母親――李佳子だった。
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