序章 「恐怖は蘇る」

5/5
前へ
/103ページ
次へ
「ここで、彼は倒れたんだな」  自分で足を滑らせたのか、誰かに襲われたのかはわからない。動画はひたすら黒い空だけを映していて、そのうち電池が切れたのか真っ暗闇になって終わっている。  その間も、画面の上は賑やかにコメントが流れ続けていた。だが、この中の誰も、撮影者を救うには至らなかったのだ。 「コメントで『子供の足が見えた』とか、『人がいた』とか流れています。私にはわかりませんが、警部補には何か見えましたか」  制服の巡査に尋ねられたが、答えられなかった。  だが多嶋には見えていた。ちらりとしか映っていないが、はっきり確認できた。  細い二本の足が……  あの子はまだこの池にいるんだろうか。  いや、そんなはずはない。あの子ではないはずだ。 「……あの」  ぼんやりとしてしまったのか、ふと交わった巡査の視線に不安が表れていた。 「あ、ああ、すまない。とりあえず、死因と傷の原因に繋がりそうなものを見つけてくれ。溺死が先か傷が先なのかで、捜査が全く変わるだろ」  多嶋よりも年嵩の監察官は立ち上がると、同情的な眼差しを向けた。 「多嶋さん、この春、またこちらに戻って来たんでしたっけ」  彼もあの事件を知る一人だった。 「一昨年、向陽台に中古の家を買ったんだよ。だから都合がいいと思ったんだがな……」  本当は、この地には戻って来たくなかった。だが、逃げることも許されないと思った。  ――あれから十二年経っていた。 (ったく、馬鹿なことをしてくれたもんだ)  ブルーシートの下の仏さんに愚痴を言いたくなってしまった。 「思い出しちまったよ、あの事件を」  本当は一時も忘れたことなど無い。 「……はい」  多嶋の言葉に、彼も肯いた。 「寝た子は起こしちゃいけませんね」  監察官が深いため息を落とし、眉間の皺を深くした。多嶋と同様、彼もあの時の恐怖を思い出したに違いなかった。  あんな事件は二度と繰り返してはいけない。  なぜならば、人の手では決して止めることなどできないからだ。  多嶋は目の前の〈河童塚〉に向かって歩き出した。あることを確かめるために。
/103ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加