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 三波佳奈が初めて補導されたのは、まだ雪のちらつく春先のことだった。  向陽小学校三年生。落窪団地(おちくぼだんち)に住む母子家庭の一人娘だった。  スーパーの閉店時間をとっくに過ぎ、スーパーも百円ショップも暗くなっていた。金を持っていない佳奈は、唯一灯りの点いているハンバーガーショップの駐車場で凍えながら座っている所を交番の警官に補導された。  母親に連絡しても電話がつながらないとのことで、たまたま夜勤をしていた多嶋が、佳奈の身柄を引き受けたのだ。 「家に帰ったら幽霊が出るんだもん」  佳奈は暖房の効いた建物の中で、自分の手を擦りながら、ふざけていると思われても仕方ないような言い訳を零した。 「見間違いじゃないのかな」 「本当だよ! 部屋の中までは入って来ないんだけどさ、団地の階段から見えたの、人の影みたいなの。しかも下が濡れていたんだよ」 「あれかな、ちょっと前に流行ったホラー映画の、ほら、水の中から子供の幽霊が出て来るやつ」  多嶋の返答に対し、失望の声を上げる。 「あんなのは作り物じゃん」 「そうだな。じゃあ、ちゃんと家の中で隠れてなきゃ」  だが佳奈は口を尖らせ、言い訳を重ねた。 「だってさ、友達と遊んでたら遅くなっちゃったんだもん。暗くなってから、あの団地に帰るの怖いんだもん」 「ほら、温かいココアだ。飲むといい」  署内にある自動販売機で買った紙コップのココアを差し出しながら、小さく嘆息していた。 「山下のおばあちゃんが脅かすの。『暗くなってから外に出ると、河童に連れてかれる』って。団地の裏の池には河童がいるって噂だよ、お巡りさんは知らない?」  多嶋のため息にも気付いていない様子で、ココアのコップを両手で持ったまま、少女はお喋りを止めない。家庭で会話が無い子どもにありがちな特徴の一つだ。 「池の奥に河童様を祀った祠だってあるんだから。きっとあの幽霊、河童にさらわれた子どもの幽霊だと思うんだよね」 「あのな、これから春になるだろ。温かくなってくると同時に凶悪犯罪が増えるというデータもあるんだぞ。言っておくが、河童より人間のやることの方が何倍も怖いんだ。女の子が独りで夜にほっつき歩いて、恐ろしい事件にでも巻き込まれたらどうする」  多嶋の言い方がきつかったのか、彼女はそれきり黙り込んでしまった。  署に迎えが来たのは二十三時四十分。地味なパンツスーツ姿で薄化粧の、二十代にも見える母親だった。
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