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◇◆◆◇ 喜助と暮らしながら、銀次郎さんと付き合う。 そんなおかしな関係を続けてひと月が過ぎた。 今日は銀次郎さんは来ない。 喜助と2人で蕎麦屋で昼食を食べた後、宿の座敷に戻り、俺は喜助のそばに寄り添って座っていた。 とても穏やかな気持ちだった。 銀次郎さんに抱かれてはいるが、喜助が認めているので、罪の意識を持たずに済む。 喜助の前で抱かれるのは、決していい気分ではない。 それは変わりないが、本音を言えば……それで欲求が解消されるのは有難い。 いつか体の欲求が薄らぐ日が来るといいが、今はまだわからない。 喜助はくっついて腕を絡めても、照れ笑いを浮かべるだけだ。 だから存分に甘える事ができるが、寄りかかっているうちに、ふと思った。 こんな風に誰かに甘えた事は、陰間の時はあまりなかったような気がする。 幼い頃はいつも疲れ果てている母に気を使い、甘えたくても我慢していた。 茶屋の客は単に客に過ぎなかった。 けれど、今こうして喜助に体を預けていると、うっとりとして眠くなるような心地よさを覚える。 うつらうつらしかけた時に、騒がしい足音が聞こえてきた。 「なに?」 思わず体を離したら、障子が勢いよく開いた。 唖然としていると、賭場の宿にやって来た、あの岡っ引きが立っている。 「おめぇが喜助だな、そこにいるのは雪之丞だろう」 岡っ引きは俺達を見て言ったが、これは……マズい事になった。 「ついに見つかっちまったか」 喜助は取り乱す事はなく、意外な位冷静に言ったが、俺は酷く焦っていた。 「あの、岡っ引きの旦那、俺は攫われたわけじゃないんです、喜助さんは俺を助けようとして」 これは善意でやった事だし、悪いのは丹前だ。 なんとか許して貰いたかった。 「ええい、うるせぇ、万願寺の住職から事情は聞いてるんだ、喜助、おとなしくお縄になれ」 だが、岡っ引きは丹前から聞いた事を鵜呑みにしているらしい。 当たり前と言えばそうなんだが、喜助に向かって偉そうに言い放つ。 「こいつを寺へ返したらどうなるか、あんたは知らねぇだろう、生臭坊主共は雪之丞を慰みものにしてるんだ」 喜助は真実を明かした。 「稚児か、へっ、そんなもん、寺じゃ慣習となってら、当たり前のことだ」 しかし、岡っ引きは薄ら笑いを浮かべて一蹴する。 「奴らは阿片を使ってる、それでも当たり前だと言うのか?」 喜助は阿片の事もバラした。 「阿片だと? てめぇが罪を逃れてぇからって、でたらめを言うな」 ところが予想通り、やっぱり相手が僧侶だからか、丹前の言う事は信じても、渡世人の喜助が言う事は信じちゃくれないようだ。 「でたらめじゃありません!」 人を肩書きだけで判断する、俺はそのあさはかさに腹が立ち、大声を出して言った。 「とにかく、番屋へ来て貰うぜ」 なのに、岡っ引きはまったく聞く耳を持たない。 「ちょっと……やめてください」 ずかずかとそばにやって来たので、岡っ引きの腕を掴んで引き止めた。 「無駄だ、お前は離れてろ」 でも俺が勝てるわけがなく、簡単に振り払われてしまった。 「あっ……」 岡っ引きは十手を抜いて喜助の真ん前に歩いて行く。 「旦那ぁ、このままむざむざ捕まるわけにゃいかねー、だが……頼みを聞いてくれると言うなら、おとなしくお縄になってやる」 喜助は身構えながら、岡っ引きに向かって意味深な事を言った。 「頼みだと? なんだ、言ってみろ」 岡っ引きは訝しげな顔をして聞き返す。 「雪之丞を寺へ戻すな、い組の親分に引き渡せ、それならおとなしくついて行ってやる」 喜助は岡っ引きに俺の事を頼んだが、その代わりに自分は捕まるつもりでいる。 「喜助さん、だめです、俺の事はいいから……逃げてください」 こんな小太りの岡っ引きひとり位、喜助なら振り切って逃げられる筈だ。 その為に、親分さんは屋根を伝って逃げろと言った。 「雪之丞、俺の事は俺が決める」 けど、喜助は逃げようとしない。 「い組の親分~? いや、しかしだな、こっちは訴えを聞いて動いてる、住職に返さねーと、解決した事にはならねー」 岡っ引きは親分の事を聞いて眉を顰め、首を縦には振らなかった。 「旦那ぁー、喜助を見つけちまいましたか」 その時、不意に銀次郎さんの声がした。 「銀次郎、お前、知ってて隠してたな」 岡っ引きと同時に振り向けば、銀次郎さんが座敷に入って来た。 「まぁまぁ~、そんな事ぁいいじゃありませんか、それより旦那、雪之丞は俺が連れて帰る」 銀次郎さんは岡っ引きのそばにやって来ると、頭ごなしに言った。 「な、なんだ、偉そうに」 岡っ引きは背の高い銀次郎さんを前に、及び腰になっている。 「旦那も知ってるでしょ、うちの親分は町の連中に慕われてる、その親分が雪之丞を引き取りてぇと仰ってるんだ、どうしてもなまぐせぇ坊主に渡すって言うなら……力づくで奪いますぜ」 銀次郎さんは岡っ引きを睨みつけて強気に言った。 「脅すのか?」 岡っ引きは喜助と銀次郎さん、二人の博徒に睨まれてたじたじになった。 「いーや、頼んでるんでさ、喜助が雪之丞を連れ出したのは事実だ、だから素直にお縄につく、その代わり雪之丞はい組が引き取る、旦那さえ上手く言っときゃわかりませんよ、逃げられたってね、どうしても嫌だって言うなら……俺と喜助、二人を相手にした後で、好きになさっておくんなせぇ」 銀次郎さんは岡っ引きに迫ったが、岡っ引きがウンと言えば喜助を渡すつもりだ。 俺は岡っ引きがウンと言わない事を願った。 そうすれば、喜助は逃げる事が出来る。 「わ、わかった、じゃ、喜助……来い」 岡っ引きは戸惑う様子を見せていたが、銀次郎さんの申し出を承諾した。 「ああ」 喜助は岡っ引きの前に歩み出た。 「そんな……喜助さん!」 思わず二人の間に飛び出した。 「雪之丞、おめぇとの約束、果たす事が出来なくなった、すまねー」 喜助は観念したように俯き、俺に詫びを言った。 「嫌だ……、そんなの嫌だ!」 俺を助けて罪に問われるなんて、第一、喜助がいなければ俺は……何もかも……全部駄目になる。 「雪之丞、こっちへ来な」 喜助の腕にしがみついたら、銀次郎さんが背後から引き剥がしにかかった。 「ちょっと、離してください!」 必死に腕を掴んだが、手首を掴まれて後ろから抱きすくめられた。 「行くぞ」 喜助は手に縄をかけられ、岡っ引きに従って歩き出した。 「酷い! お上なんて無い方がマシだ、喜助さんは悪くない! 悪くないのに……、喜助さん……!」 こんなのは間違ってる。 腹が立ったが、銀次郎さんに捕まって身動きできず……喜助は行ってしまった。 「俺のせいで……、俺は丹前様に買われた身、俺が丹前様に頼めば……罪を軽くしてくれるかもしれない」 俺が寺に戻って丹前に頼み込めば、重罪を免れる事が出来るかもしれない。 「馬鹿な……、そんな事をしたら喜助がやった事が全て水の泡になる、阿片なんか使う奴が、お前の話を聞いて情けをかけると思うか?」 銀次郎さんは端から無駄だと決めつける。 「それは……」 正直言うと、俺にもわからなかった。 そもそも喜助は、こんな真似をする必要なんかなかったのに……。 もし俺が、あのまま万願寺で慰みものになっていれば……。 今まで味わった事のない幸せな気分を味わう事はなく、これからの行く末に希望を持つ事もなかった。 そして、なによりも……喜助の事をこれ程好きにならずに済んだ筈だ。 それが……せっかく手に入れた幸福なのに、こんな結末になってしまって……これ以上残酷な事があるだろうか。 「うっ……、俺の為に何故」 涙が滲み出し、視界が霞んだ。 「さあな、奴が何を思ってお前を連れ出したのか、それだけ惚れてるんだろうが、手を出さねぇのがわからねー、雪之丞、悲しいのはわかるが、とにかく……俺と共に来るんだ、親分の家で預かって貰う」 どんなに悔しくても、今はただ銀次郎さんに従うしかなかった。
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