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◇◆◆◇ 俺は若い時にバイクで事故って下半身不随になった。 でも車は運転できる。 車椅子ごと乗れる車に乗っている。 乗り降りに時間はかかるが、仕事にも通える。 気づけば32になっていたが、ここまでくるにはそれなりに苦労した。 事故った当時、付き合ってた彼女がいたが、こんな体になってしまったら……子供を持つ事は無理だ。 ナニが勃たない。 既に結婚済みなカップルだと、金玉を切って精子を取り出し、人工授精ってのもあるらしいが、結婚前の段階なら別れた方がいい。 子供を抜きにしても、どのみち一生車椅子の生活で、SEX無しになってしまう。 だから、俺は彼女と別れた。 確か……そういう関連で本を出した人がいたが、正直、そこまでSEXにこだわってない。 というより、使わなくなった機能は萎縮するらしく、性欲自体減退しつつある。 というわけで、これから先の人生をどう楽しんで生きていくか、それが俺にとっての課題だ。 仕事は事務職をやっている。 この体じゃデスクワークしかできない。 会計、出納、伝票処理、電話番、その他諸々だが、仕事は17時にきっちり終わる。 事務職は女性ばかりで男は俺ひとり。 やりにくいっちゃやりにくいが、ま、この体なら誰もが事務職をやる事に違和感を覚えない。 帰宅時、ハンドルを握って、通い慣れた道をいつも通りに進んでいた。 と、車通りの少ない交差点にさしかかった時、右側から車が飛び出してきた。 一時停止は俺ではなく、飛び出した方がやらなきゃいけない筈だ。 ギリギリでブレーキを踏んだが、車の主はソッコーで降りてきてこっちにやってきた。 よく見たら、車はDQN系ミニバン、降りてきた男はチンピラ風。 これはマズい事になった。 イチャモンつけるつもりか? と思っていると、案の定屈み込んで窓を叩く。 「おい、開けろ」 開けたくはないが、こんなチンピラみたいな奴を相手にビビるのは癪だ。 本当は怖かったが、変にイキがって窓を開けた。 「なんでしょう?」 男がなにか言う前に、全力で平静を装って聞いた。 「『なんでしょう』じゃねー、どこに目ぇつけてんだよ、擦ったじゃねーか」 男は擦ったと言ったが、当たった感触は全くなかった。 「あの、当たってませんが……」 「そうじゃねー、お前の車を避けようと思って、塀に擦ったんだよ」 しかし、男はややこしい事を言い出した。 「えっ、塀に?」 「ああ、見ろ、車が向こうに寄ってるだろう」 狭い道路だから、確かに相手方の車は塀にかなり接近して止まっている。 「あ、はい……」 「こりゃ傷をなおすのに数万はかかるな」 男が言ったように、車の傷を修理するにはそのくらいはかかる。 「あの、じゃあ警察呼びます」 事故なら警察と保険会社だが、まず警察だ。 「ああ待て待て、俺は優しいからな、1万出せ、それで許してやる」 ところが、男は妙な事を言いだした。 「えっ?」 警察を拒否って示談で済まそうとする。 これは……当たり屋の手口じゃないのか? 「安くしてやる代わりに、お前の住所氏名、電話番号をここに書け」 ポケットからメモ帳を出したが、予めそんな物を持ってるのも怪しい。 とりあえず1万ぶんどって、あとで後遺症だとかなんだと言ってゆするパターンだ。 「っと……、同意できません、警察呼びます」 きっぱりとお断りした。 「はあ? 俺がせっかく優しく言ってやってるのに、おめぇ、人の厚意を無にするつもりか?」 男は脅すように睨みつけてきた。 もう間違いないだろう。 「そんなつもりはありません、事故は警察に言うのが当然だと思うので」 ここで屈したら負けだ。 「おめぇな、障害者だからって図に乗るなよ、車を運転する以上、健康な人間と同じだからな」 だが、男は俺が障害者だという事を口にする。 車に貼ったシールを見たんだろうが、カチンときた。 「そんな事は分かってます」 「分かってるなら、俺の厚意を素直に受けろ」 「だから、警察を」 「うるせぇ、たった1万で済むんだ、事故にゃならねぇんだぞ、なあ、さっさと出した方がいいぜ」 男はこっちに手を伸ばし、胸ぐらを掴んでくる。 「暴力を振るうつもりですか?」 こんな壊れた人間を虐めたいなら、どうぞ勝手にやれって話だ。 「俺はよ、石丸組の者だ、なんなら事務所で話をするか?」 男は殴りはしなかったが、組の名前を出して脅す。 「あの、それは脅迫罪に値するんじゃ?」 今はそういう事をやると、多分罪に問われる。 「なにぃ~?」 男は苛立って胸ぐらをグイッと強く引っ張ったが、俺は屈するつもりはない。 『1万出せ』『警察へ』と、不毛なやり取りが暫く続いたが、男は殴りそうで殴らない。 そうするうちに見知らぬ男が2人、向こうから歩いてくるのが見えた。 背が高くガタイがいいが、胸ぐらを掴むチンピラよりも遥かにヤバそうな人達だ。 男は組名を出したので、仲間が加勢しにきたんじゃないかと思った。 これはさすがにマズいだろう。 焦っていると、男らはつかつかと男の後ろにやってきた。 「おい、てめぇ」 男のひとりがドスの効いた声で言い、チンピラ男の肩を掴んで自分達の方へ向けた。 「あっ!」 男は2人を見て酷く狼狽えている。 『ん?』と思った。 どう見ても、仲間が加勢という雰囲気じゃない。 「お前だな、うちの名前を出して荒稼ぎしてるチンピラは」 うちの名前って事は……チンピラが口にした石丸組の方々だと思うが、どうもこの男は組員じゃなかったようだ。 「こい!」 「あ、あ、勘弁してくれ~」 ひとりがチンピラを引っ捕まえて向こうへ歩いて行き、チンピラは許しを乞うような事を口走ったが、2人は俺から見えない場所に姿を消した。 呆気にとられていると、残った方の石丸組の方が俺の傍にやってきた。 「お宅はさっきの奴に脅されたんだろ?」 「は、はい……」 言っていいか迷ったが、事実だから頷いた。 「ありゃこの辺りでカモを漁ってる当たり屋だ、お宅も危なかったな、奴は組の名を出したか?」 本職の人間と話をするのは初めてだが、黒っぽいスーツを着ているし、年は40くらいか? いかにもその筋って顔をしている。 「はい」 俺はカチコチに固まってイエスと答えた。 「やっぱりな、つか……あんた、体が不自由なんだな」 男は俺の体の事に気づいた。 「はい」 「不自由な体で運転か……偉いな」 俺はじっと見つめられて益々緊張していたが、男はサラッと俺の事を褒める。 「いえ……」 ヤクザって怖いイメージしかなかったが、今の言葉は意外な感じがした。 「奴はこっちで片付ける、構わねぇから行きな」 「はい……」 片付ける……その意味を深く考えるのはよそう。 行けと言われたので、有難く帰宅する事にした。 男に頭を下げて挨拶したら、男は『おう、気をつけて帰れよ』と言ってくれた。 とんだ災難にあった。 当たり屋とか、絶滅したと思っていたが、まだ生き残っているらしい。 家に戻ったら、お袋が出迎えてくれる。 事故をするまでは一人暮らしをしていたが、それは不可能になった。 トイレすら普通にはできず、排尿は無理矢理押して出すか、或いはカテーテルで出すか、尿とりパットを使う。 便は週2回浣腸を行って強制的にだす形だ。 こっちも下痢をしたらオムツが必要になってくるので、極力そうならないように気をつけている。 下半身の感覚がない為、排泄すら自分ではコントロールできない。 こういう話は……健常者には話しにくく、ひたすら隠して処理している。 その点家は天国だ。 気を使う必要がない上、お袋や親父が介助してくれる。 だから、家を離れる事は……恐らく2度とない。 つか、無理だ。 俺の楽しみは、窓辺に置いた多肉植物を観察する事。 こいつらは水はあまり必要ない。 植物はリアクション無しだが、それでもたまに新しい芽を出したりするから、世話をしてるって実感は得られる。 お袋が介助犬はどう? って言った事があったが、世話をしてやれるか自信が無い。 両親の負担を増やすだけになりそうだし、それは無しにした。 キッチンで夕飯を食べたが、俺は当たり屋の話はしなかった。 あの石丸組の人達がきた事で助かったし、下手に心配をかけたくない。 食事の後は風呂に入ったが、家の風呂やトイレは俺の為に改装してある。 下半身不随とは言っても、腕や手は使えるので、腕で支えながら何とか移動出来る。 職場は手すりのみだが、上半身が使えれば何とかなる。 難点はやっぱり時間がかかる事だが、それは仕方がない。 ただ、少しでも時間短縮になれば……と思い、鍼治療に通っている。 下半身の麻痺が治る事はないと思うが、何もせずにいるのは悔しいからだ。 ◇◇◇ 代わり映えのない毎日が過ぎていった。 今日は仕事が休みなので、鍼治療に行く。 車に乗って行きつけの鍼灸院へ向かった。 30分ほど走れば、田舎道の道路沿いに田端鍼灸院という看板が見えてくる。 駐車場に車をとめて車椅子を引っ張り出し、そっちに乗り換えて車を降りた。 隣には見慣れぬ高級車が止まっているが、患者さんは遠方からくる人もいる。 気にせずに院内へ入った。 ここは車椅子の患者さんの為に、スロープ付きにしてあるので、俺みたいな人間には有り難い。 「どうも小谷さん、こんにちはー」 受付のおばちゃんが笑顔で迎えてくれる。 「どうも」 軽く頭を下げて待合の椅子の一番端の所へ行った。 車椅子からおりるのは面倒だから、邪魔にならないように端っこで待つ事にしている。 けど、先客がすぐそばの椅子に座っていたので慌てて頭を下げた。 「あの、失礼します」 知らない人間とは言っても、狭い空間だし一応挨拶しなきゃ、黙ってるのは気まずい。 だけど……椅子に座っている男性、どこかで見た事がある。 「おお、あんたはあん時の」 男の方が声をかけてきて、もう一度じっくりと見てみたら……あの時の石丸組の方だった。 今日はジャージ姿なので、パッと見分からなかった。 「あ、あの時はどうも……助かりました」 こんなところで出くわすとは思ってもみなかったので、かなり驚いたが、とにかく礼を言わなきゃ駄目だ。 「ああ、ありゃあな、俺らの組を利用してたんだ、ま、ちょいと仕置しといたんで、もう悪さはできねーだろう」 仕置しといた……って、なんか怖いが、この人はよく見たらそんなに怖そうには見えない。 「そうですか……」 何か話をしてみたいが、ヤクザを相手に何を話せばいいか……困った。 「下半身の治療か?」 すると向こうから聞いてきた。 「はい、もう治りはしないんですが、少しでも動きがスムーズになれば……って思いまして」 「病気か?」 「いえ、若い時にバイクで事故ったんです」 「そうか、バイクはよくやっちまうんだよな、はっきり言って転けただけでもやべぇからな、俺も昔ツレが死んだ」 「あ、死んだんですか?」 「ああ、所謂族だよ、ははっ、お宅は命拾いしただけでもよかった、死んじまったら2度と会えねぇからな、ま、当たり前だがな、はははっ」 男はあっけらかんと言って笑ったが、俺は男の事が気になった。 「あのー、で、今日は……、どこか痛いとか……ですか?」 「ああ、こないだ無茶してな、腰をグキッと捻っちまった、それ以来痛くて堪らねぇ、で、ここが効くって聞いて来てみたんだ」 無茶してグキッ……何なのか気になるが、深くは聞きづらい。 「そうですか……」 「けどよ、あんたやっぱすげーわ、車椅子を操ってよ、ひとりでよく来れるもんだ」 「慣れたらまぁー、事故った直後はショックで……、何もかも終わったような気がしました」 「だろうな、急にそうなったら、俺だってショックだ、つー事は……相当頑張ったんだな?」 「頑張った事になるのかな? 動かなきゃ寝たきりになるって脅されて、仕方なくです」 「そうか、仕方なくか、いや……、多分よ、俺らが想像できねーくらい頑張ったと思う、鍼治療が効いて、今よりもっと楽になりゃいいな」 「ですね、そう願ってますが、ダメ元です」 気づけば、ごく自然に石丸組の方と世間話をしていたが、この人は気さくに話をするし、下手に同情的な事を言うわけでもない。 俺を見る人間のほとんどは、同情的な目線を向けてくる。 お気の毒に……って。 俺だって五体満足な時は同情する側だったと思うが、自分がこういう体になったら、同情されるのはあんまり気分がいいものじゃないと分かった。 それから治療で呼ばれるまで、ずっと彼と話をしていた。 なんだかこの人と話をしたら、自然に言葉が出てくる。 話が盛り上がった事もあり、俺達は互いに名前を名乗った。 石丸組の方の名前は小川春樹、石丸組の幹部らしい。 42になるが、未だに独り身だと嘆いていた。 小川さんは先に治療を済ませて帰る事になった。 『じゃ、また』と軽く挨拶してサヨナラしたら、今度は俺の番だ。 台の上に寝るのは介助して貰った。 うつ伏せに寝たら、先生はツボに針を刺していく。 上半身は感覚があるが、腰から下は感覚がない。 それでも下半身のツボを主にやって貰う。 治療後は体が軽くなったような気がするが、先生は上半身、腕に筋肉をつければ動く時の助けになるから、今よりは楽になると言っていた。 パラリンピックのバスケ選手は腕を物凄く鍛えているが、あれは極端だとしても、要は筋肉がつけば腕だけで体を支える事が可能になる。 まずは鍼治療で上体を楽にしてから、上半身を鍛えてみたらどうかという話だ。
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