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◇◆◆◇ 職場では周りが気を使ってくれる。 「はい、これ、どうぞ」 隣の女の子がお茶を差し出してきた。 PCの画面とにらめっこ状態だと、目が疲れてくる。 ちょっとひと休みしよう。 「ありがとう」 「いいえ、どういたしまして」 隣の子は座り直して仕事を再開したが、職場じゃみんなこんな感じで親切だ。 お茶をいれてくれたこの女の子は、他の部署の男と付き合っていて、結婚秒読み段階に入っている。 浮かれた様子を見るだけで、華やいだ空気が伝わってくる。 こういうのは、何も隣の女の子に限った事じゃない。 俺はこの職場で、複数のカップルが誕生したのを目の当たりにしてきた。 その度に御祝儀が必要になるし、一応式にも招待されるが、長時間パーティ会場にいるのは負担が大きい。 悪いが、式への参加は断ってきた。 「きゃははっ、やだーもう」 女子社員というのはよく喋る。 少し離れたデスクに座る女の子が、冗談を言い合ってケラケラと明るく笑う。 俺は茶を啜りながら、甲高い笑い声を耳にしているが、同じ空間にいて同じ空気を吸っているのに、自分だけ異次元にいるような気持ちになる。 今の俺にとって健常者がやるような事、例えば飲み会だとか、そういうのは無理だ。 当然、惚れた腫れたの話題は……別世界の出来事に思える。 こんな風だから、小川さんと会うのが異様に楽しく感じるんだろうか? 自分で自分に問いかけてみた。 あの時、カフェで納得したつもりだったが、小川さんと会えなくなると思うと、やたら沈んだ気持ちになる。 そんな気持ちになる自分自身がわからなくなり、先日、急に不安になってきて、LGBT関連のサイトを調べた。 それによると、ゲイの人が自分の性的指向を意識し始めるのは、若い時が圧倒的に多い。 小中学生の頃から同性に興味を示している。 俺は違うから、やっぱり違うんだろう。 安心したが、サイトの片隅に……30代で目覚めたっていう記事を見つけた。 ギクッとして、それ以上見る事は出来なかった。 ◇◇◇ ゲイか否か、それは考えないようにした。 田端鍼灸院で小川さんと会って、世間話をする。 それが何よりも楽しかった。 しかし今日は金曜日、今週も鍼灸院はこれで終わりになる。 会えなくなる時が着実に迫ってくる。 俺はダメ元でもう1回頼んでみた。 「小川さん、あの……、会うのやっぱり駄目ですか?」 「小谷さん、今ちょっとゴタゴタしててヤバいんだ、ガチで迷惑かける事になる」 「なにかあるんですか?」 「ああ、ちょっとな、だからよ、あんたは余計な事は忘れて、体が動くように頑張れ」 でも彼は何か事情がありそうな事を言って詳細は明かさず、俺の肩を叩いて言ってくる。 どうしても……駄目みたいだ。 がっかりだったが、凹んだ顔をしたら申し訳ない。 大体、無垢な少年ならいざ知らず、いい年したおっさんが……そんな理由でしょぼくれるのはかっこ悪いだろう。 この日も、いつも通りに明るく話をした。 時間は無情に過ぎていき、あっという間に翌週の月曜日になった。 医院に入ると、珍しく小川さんの姿がない。 いつもなら俺より先に来ている筈だが、窓の外を見てもそれらしい車はやって来そうになかった。 受付のおばちゃんに聞いてみたが、予約は入ってるという。 なのにその日、小川さんはとうとう現れなかった。 電話番号を聞いてるわけじゃないし、連絡したくてもできない。 ゴタゴタしていると話していたが、なにかトラブルに巻き込まれた……。 俺の頭の中で、急にヤクザって言葉がクローズアップされ、抗争、撃ち合い、狙撃……嫌な想像が頭の中を駆け巡った。 不安に苛まれながら帰宅したが、気になって仕方がない。 どうか無事でいて欲しいと、ひたすらそう願った。 翌日は仕事だったが、心配で仕事が手につかない。 それでもやる事をやってるうちに帰宅時間になった。 どうにかして確かめたい。 こうなれば、直接石丸組へ出向く……。 事務所の場所は知っている。 ヤクザの事務所へ行くのは怖いが、行かなきゃ小川さんの事はわからない。 覚悟を決め、帰りがけに立ち寄ってみる事にした。 車に乗って会社の駐車場を出た。 町外れのマンションの一室、そこが組事務所だが、一階部分を店舗みたいな形にして使っている。 俺は車椅子だから、その方が助かる。 20分ほどで到着したが……どこに止めていいかわからず、事務所の前につけた。 と、いきなり扉が開いて中からヤバイ人達が数人飛び出してきた。 「わ、わ、やべぇ……」 「なんだてめぇは」 怖い人が窓越しに睨みつけて言ってくる。 手が震えたが、兎に角窓を開けた。 「あ、あ、あの……」 車中とはいえ、本職の方々数人を前にしたら、言葉が出てこない。 「ん、この車、見覚えがあるぞ」 頭の中が真っ白になりかけているところで、うちひとりが俺の車を見て言った。 「こりゃ、いつか当たり屋にやられてた奴だ」 俺も思い出した。 その人は当たり屋に遭遇したあの時、小川さんと一緒にいた人だ。 「なんだ、カタギか?」 他の仲間は俺をジロジロ見て言った。 「おい、そうだよな? この車椅子のマーク、覚えてるぜ」 その人は俺に聞いてきた。 「はい、そうです……」 この人のお陰でなんとか助かりそうだ。 「やっぱりな、おい、こいつは無害だ」 無害認定、ありがとうございます。 「んだよー、カチコミかと思ったぜ」 仲間達は面倒くさそうにぶつくさ言って事務所に戻って行った。 「で、なにしにここに来た?」 「あの、小川さんは一体……」 上手い事向こうから聞かれたので、待ってましたとばかりに聞き返した。 「あいつはパクられた」 「えっ……」 パクられた……逮捕って事か? 「今な、ちょっと揉めててよ、あいつが向こうの奴をボコしたんだが、傷害で逮捕だ」 「あ……、じゃあ、小川さんは……」 「こういう稼業だからな、喧嘩は日常茶飯事だ、1年か……1年半か……、出てこれねーな」 「刑務所……ですか」 「そうだ」 「地元の……ですか?」 「ああ、今はまだ留置場だが、刑が確定したらムショに入る事になる」 「面会や……差し入れ出来ますか?」 「お前、ひょっとして……あいつと関わってたのか?」 この人は小川さんと俺が会っていた事を知らないようだ。 「はい、鍼灸院で」 「おお、そうか、あいつ腰を痛めちまってな、って言いつつボコしてちゃ、笑い話だがな」 「あの、じゃあ、刑務所に入る事になったら知らせて貰えると助かるんですが」 「へっ、やけに親しいんだな」 ニヤニヤしながら言ったが、変に誤解されたら小川さんに申し訳ない。 「あの、小川さんは……、俺を励ましてくれました、だから力になりたいんです」 「そうか、わかったよ、じゃあな、名刺渡しとくわ」 「はい、すみません」 「と、あんたの名前と電話番号を教えてくれ」 俺は彼に名前と電話番号を教え、代わりに名刺を貰った。 この人は杉本満って名前だ。 見た感じ、小川さんと近い年齢に思える。 刑務所なんてさっぱりわからないし、これから先、杉本さんに頼る事になりそうだ。
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