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 人通りがまばらになって、マンションが少しずつ大きく見えてくる。背中を幾筋も汗が伝う。保科くんの額にも汗が浮いている。  保科くんが唇をキュッと結んだ。そして俺をチラッと見上げる。  緊張した顔。 「……ドキドキ、するね……」  掠れた声で言った俺に、保科くんが「うん」と頷いて応えてくれた。  もう何も喋ることが思いつかない。普段なら息も乱れない坂で、心臓が苦しいほどに強く打っていた。  日傘を畳みながらマンションのエントランスを抜けて、エレベーターホールに向かう。 「保科くん、日傘ありがとね」  畳んだ日傘を差し出すと、保科くんは両手で受け取った。 「あ、いえ。こちらこそ、畳むのありがとうございます」  声がちょっと上擦ってる。 「ん? ううん、それは全然……」  低い音を立ててエレベーターのドアが開いた。自分たち以外は誰もいない。保科くんの腕を引いて乗り込んだ。 『閉』を押して階数ボタンを押す。いつもは何とも思わないけど、ドアの閉まるスピードをやけに遅く感じた。  あのカメラがなかったらキスができるのに、なんて思ってしまう。  身体に隠れて、保科くんの腕を取っているのは見えないだろう。指が容易に回ってしまう細い腕。  エレベーターが止まってドアが開いた。ドア前には誰もいないし、話し声や足音も近くからは聞こえてこない。  保科くんの腕を引いたままエレベーターを下りた。気を付けてるつもりなのに早足になってしまう。保科くんは小走りで付いてきてる。 「…ごめ…っ、速いね」  振り返ったら、保科くんが赤い顔で首を横に振った。その唇が、動く。 『はやく』  声になってないから、間違ってるかもしれない。  でも表情はそんな感じ。ごくりと唾を飲み込んでポケットの中を(まさぐ)り鍵を引っ張り出した。    慌てると、物事は上手く進まない。そんなことはよく分かってる。  だからほら、鍵が鍵穴に挿さらない。  ようやく二つの鍵を開けて、保科くんを抱え込むようにして中に入った。  ゆっくり閉まろうとするドアを力任せに引く。片腕で保科くんを抱きしめて、後ろ手に鍵をかけた。  うわ……っ  保科くんが力一杯俺に抱きついてくる。汗をかいた身体にTシャツが張り付いて、更なる汗が流れた。 「……保科くん」  汗で湿った黒い髪を撫でて、細い身体を抱きしめた。 「保科くん好きだ……」 「ぼく、ぼくも……っ」  背中に保科くんの手のひらの熱を感じる。俺を見上げた保科くんの大きな目と目が合った。  潤んだその目が伏せられていく。扇のように美しい長いまつ毛。  キスは、もう何回目だろう。  甘い吐息と水音。ざらりとした舌の感触。ぴったりとくっついた身体の蒸れた熱で肌が、服が湿っている。 「にゃあ」 「にゃー」 「……あ……っ」  不意に聞こえた猫たちの声でハッとした。がっしりと抱き合ったまま、しばし見つめ合ってクスッと笑った。 「…中入ろっか、ね」 「はい」    ミルクとココアがガラス玉みたいな目でじっと見上げてくる。  屈んで2匹の頭を撫でてる保科くんを後ろから抱きしめた。 「今日は俺が先、ね? 保科くん」  もう1秒だって待てない  
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