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 過ごしやすくなった10月末の午後、少し緊張した顔で中学生たちが列になって歩いて来る。  俺も去年来た。体験入学。  昇降口に立って中に招き入れながら、靴を入れる袋を忘れた子にビニール袋を渡す。  全員を体育館に並ばせて、段取り通りに進んでいるな、と時計を見上げた。  まずは校長の挨拶。それから会長の話。その話の最後にある制服の紹介でステージに上がる。それが終わったら、中学生たちを引率して校内を少し案内して、再び体育館に戻って、副校長が挨拶して終了だ。  校長がステージに上がって挨拶が始まった。  冷たい床に座らされている中学生たちは配られていたプリントから目を上げて、一斉に校長を見た。皆、少し肩に力が入ったような緊張のオーラを背中から漂わせている。  あれ? あの子。  端の列の真ん中より後ろ寄りに座っている、学ランの男子生徒。  体育座りをしている後ろ姿のその小さな頭が、ふらりふらりと揺れている。  その度に、照明を浴びている髪が艶々と輝いていた。  なんて言うか……やる気なさげな背中だな。  他の子の放っている緊張感がまるでない。  あれか。本命は他の高校で、でも体験入学は2校は行きなさい、とか言われて数合わせで来た、とかか。    あ。  ほら、だからプリント飛ばしたりするんだよ。  仕方ないなぁ  さすがに慌てた様子でプリントを追いかけようとしているのが視界に入った。でも俺の方が速い。  プリントを拾い上げて、それを飛ばしたやる気の見られない背中の持ち主に視線を向けた。  う、わ……っっ!  かわいーーー……っっ!!  どくんっと、苦しいほどに心臓が跳ね上がった。  なんだ?! なんだなんだっっ!  めちゃくちゃ可愛くないか?! あの子……っ!  ドキドキしながら、その学ランの男子生徒の元に向かった。  向こうも俺を見上げている。  丸く見開かれた大きな目。白くすべすべの肌。頬は少し赤い。  ついまじまじと見てしまって、見つめ合ってしまった。  さっきまで、つまらなそうにしていた背中。  どんな顔して座ってたんだろう。  その顔も見たかったな。   絶対可愛かった。  プリントを手渡すと、彼は小さく頭を下げた。  ただプリントを渡してお終いは嫌だった。  あの子の中に、俺という存在を残したかった。  だから何か声をかけたくて、だけど咄嗟には何も思いつかなくて、見たままのことを訊くことしかできなかった。 「退屈?」  その子は、俺を見つめて目を丸くしていた。  困ってる仔猫みたいだ。  可愛い! 可愛い! すっごい可愛い!  やばいっ! どうしよう……っ!  なにが恋愛感情のないタイプ、だ。  ドバドバ溢れてきてるじゃないか。  ゆっくりと元の立ち位置に戻る間も、脈拍はどんどん速くなっていっている。  走りもしないでこんなに心臓が強く打つなんて知らなかった。  さっきまでと違って、しっかりステージを見ている細い後ろ姿を見つめた。 「秋川、行くぞ」  藤堂先輩に、背中をぽんと叩かれてハッとした。  そうだ、制服紹介……っ  会長の話、全然聞いてなかった。  ステージの上から、さっきのあの子を探した。そんなに目が良い方じゃないのが悔やまれる。  でもたぶん、あそこに座ってるあの子だ。  まっすぐにこちらを見ている。どんな顔をしてるのか見えなくて本当に残念だ。  しかも、たぶんあの子はうちの高校には来ない。  本命はどこの高校なんだろう。  その後は、近くを通ることさえなかった。  ずっとドキドキしながら、どうにか役目を果たした。  帰っていく華奢な後ろ姿を見送りながら唇を噛んだ。  いっそ本当に何も分からないならいいのに、俺はあの子の中学がどこなのか知ってしまっている。  やばい。ストーカーになりそう、俺。  みんなこういう気持ちをどうやって宥めているんだろう。  経験がなさすぎて分からない。  とりあえず、ストーカーに間違われるような行為は慎むべきだ、ということだけは分かっている。……でも。  片想いとストーカーの境目は、一体どこなんだろう?  
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