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飛び込み案件
雑居ビルの三階フロアをすべて借り切っている興信所「新・土井エージェント」の事務所はがらんとしていた。人がいないため部分的に照明も落とされ、まるで休業日のようであったが、さにあらず、れっきとした営業中である。
その証拠に、一人の男性社員がデスクについて――新聞を読んでいた。三十八歳になる先野光介は、しかしこれが通常運転だった。
他の探偵たちは全員出払っていて、この暑い中、汗を流して働いているというのに、先野はエアコンの効いた屋内でなにをするでもなく時間をつぶしていた。客の依頼に応えるべく走り回っている同僚の活躍や成績を気にするふうもなく、それこそ涼しい顔で。本人曰く、
「このおれに相応しい仕事が来ないだけさ」
名探偵であるおれにはもっと難しい案件が回ってくるのだ……などとうそぶくが、実際はそんな特別な案件が興信所に入ってくることはなく、「浮気調査」や「身辺調査」が依頼内容のほとんどで、それでも不服は言わず、一般的な仕事であっても他の探偵では手に余る案件だと信じることで心の安定を維持していた……。
だからマネージャから、
「先野さんに案件が入ったわよ」
と声をかけられれば、やる気満々で返事をするのだった。
「急な案件かな?」
依頼は電話で内容が現実的かどうかを判断したのち予約をしてもらい、スケジュールを調整したうえで探偵に振られる。本日、なんの予定も入っていなかった先野は、本当なら開店休業のはずだった。
「まぁ、急ぎってわけじゃないんだけどね……」
長身のマネージャ硯山達護郎は、三十人もの所属探偵のスケジュール管理を任されていた。探偵業務は成果がでるまでどの程度日数がかかるか正確には予測できない。穴があかないよう案件を効率よく配分していく必要があるのだ。が、部長からもその仕事ぶりを評価されている硯山マネージャであったが、先野にだけはどういうわけか仕事が回せなかった。パズルのピースが埋まらないかのように、先野が暇になっているのはどうにも釈然としなかった。なので、今日も一日働かないアリとして過ごさせるのかと苦慮しているところに舞い込んだ案件はまさしく渡りに舟で、ほっと胸を撫でおろすのだった。
「もう依頼人は来ているのかい?」
「今回は系列会社からよん」
毎度ながらアイシャドーの濃い目のメイクで、パンチのきいた香水も自己主張が激しいマネージャである。
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