君の名は

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飯島さんに連れられて行ったお店は地下にあって、洞窟のような造りの店内は薄暗く、凝った照明が幻想的な雰囲気を感じさせる。 席に案内される時目に入ったカウンター席には、見えるようにお酒の瓶が並べられていたけれど、全て海外のものらしく、ラベルは読めなかった。 名前だけの当たり障りない自己紹介をぼんやりと聞いていると、正面に座っていた男性が「青葉です」と名乗った。 渡瀬さんだったかが「青葉?」と聞き返したので、その声につられて、目の前に座る男性の顔を初めて真っ直ぐ見た。 青葉さんは聞き返されたことに対して、ただ「はい」とだけ短く返事をした。 「青葉」は職場の店舗名と同じ名前だった。 やがて、「休日は何をして過ごすのか」という、ありふれた会話が始まったけれど、わたしの興味は目の前に置かれた海老とアボカドのサラダだった。 取り分けた方がいいのかな? そう思って見渡したけれど、誰も料理には見向きもせず、箸すら持っていない。 それで、ひとり取り皿にとって食べようとしたところで、斜め向かいの男性に話しかけられた。 「名前、『オウガイ』って言ったよね? どこかで聞いたことがあるんだけど……」 ずくっと、胸に鈍い痛み。 「ほら、森鴎外の鴎外!」 そう言ったのは飯島さんだった。 「ああ! 『舞姫』書いた人! 道理で聞いたことあると思った。もしかして漢字も同じ?」 「はい、同じです」 「めずらしい名字だよね」 「そうですね」 「そんな鴎外さんの趣味は何?」 「趣味……ですか……」 少し考える。 「趣味」と言えるものはない。 「旅行でしょうか」 「旅行、いいねぇ。どんなとこへ行くの?」 「山です」 「山?」 「登山をするために旅行してます」 国公有地限定の登山。 私有地だと……迷惑がかかるから。 「えーっと、何だっけ? 山ガールってやつだ」 そう言われて、ただ微笑み返した。 それ以上会話が膨らまないことに、男性は諦めて他の人に視線を移した。 早く帰りたい…… そんなふうに思いながら、目の前の料理を自分の取り皿にとった。 そう言えば、唯一名前を覚えた青葉さんは、名前を名乗ったきり誰とも口をきいていない。 だからといって話しかける気もなかったので、ひとり黙々と料理を食べ続けた。
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