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私の店に客は来ない。
三年前にオープンしたギャラリー併設カフェ『peinture』。フランス語でペンキという安直なこのネーミングに込めた願いは、大胆にそして自由に。そういう店でありたいというものだ。
今では鼻で笑ってしまうようなナンセンスなネーミングの店を私は経営している。
誰も来ない店内のカウンターでメールを確認する。
ありがたいことに本職のイラストレーターの仕事が途絶えたことはない。だが、最近見るからに依頼件数は減ってきている。
一時は飛ぶ鳥を落とす勢いなどと言われたが、見る影もない。
私は大きなため息をついて、店内を見渡す。
はじめはそれなりに人も来た。今では一日に数人来るか来ないか。来たとして、明るい店内の装飾を可愛いと言いながら、何より可愛い自分を撮りに来るような客ばかりだ。
アートを愛する人々の語らいの席のはずだったのに。
併設したギャラリーに展示を求める人などもはやいない。悲しいかな、自分の昔のイラストばかりを飾っている。
定休日の水曜日。私は買い物に出かける。
日差しが暑くなり始めた五月。だが、まだ、カーディガンは脱げないような中途半端な陽気に意味もなく苛立つ。
最近は節約も意識しなければ、将来に不安が募る貯金になってきた。キャベツと豚肉、インスタント食品がメイン。三百円のスイーツすら買い控える。そんな買い物にも嫌気がさしている。
今年中に閉店しよう。私は心に決めていた。
家路につくと、ふと店の壁のイラストが目に入る。
たくさんの花や鳥をデザインしたイラスト。平凡で、つまらなくて、それでいて自己主張の激しいそれ。
もはやくすんだ日常の一部となっていたが、改めて見るとあまりにひどい。恥ずかしくてたまらない。
私は荷物を玄関先に放り出すと、我を忘れてホームセンターに車を走らせる。いくつもの白いペンキと、大きな刷毛を買い、法定スピードを越えて家に戻った。
こんなものを他人に晒してのうのうと生きていた自分が信じられない。あまりの羞恥に汗が出た。
私は着替えもしないで、ペンキの蓋を開け、刷毛を勢いよくその白に漬ける。そして、壁に叩きつけるように、手を振り上げた。
「待ってください!」
あまりの声の大きさに私は我に返った。
その方へ目を向けると、青年が口元を押さえ、顔を真っ赤にして、せわしなく辺りを見まわしている。
不審な動きに私は眉を顰める。目が合った彼は申し訳なさそうな顔で私を窺った。
「あの……。塗り替えるんですか……?」
「え?」
蚊の鳴くような声で言われ、私は思わず聞き返す。
気分が波立っているため、語調がきつくなっていたのだろう。彼はびくりとした。
だが、彼はひるみながらもまっすぐに私を見つめる。
「この壁の絵を描きかえるんですか?」
「ええ、もう塗りつぶそうと思って」
思いがけない問いだったが、私の答えは決まっていた。
彼は目を見開いて、どこか思いつめたような表情をしている。かと思えば、突然頭を下げた。
「お願いします。この絵を消さないでください」
私は戸惑う。
「僕はこの絵が大好きなんです。どうか」
彼は何度も何度も頭を下げた。そして、私の戸惑いはやがて心に影を作り出す。
「この絵に何の価値があるの?」
「え」
「つまらなくて恥ずかしい、こんな絵に」
口からこぼれた卑屈な言葉。もう苦笑するしかない。
そんな私の顔をじっと見つめ、彼は首を横に振る。
「誰が何と言おうと、僕には価値のある絵なんです」
どうしてそうもまっすぐ言えてしまうのだろう。こんな駄作を。こんな愚かしい絵を。
馬鹿にされてるのかと思うくらい純粋な言葉に、私は唇を噛む。
「ごめん、やっぱり消すよ」
「お願いします」
「無理だね」
何を言っても彼は引き下がらない。
「僕は岬さんの絵が好きなんです。お願いします」
頭を下げる彼を見つめ私は言葉を失った。
岬陽子、私の名前だ。イラストレーターとしてもその名前で活動している。
「どうして名前まで……」
彼はきょとんとし、そして照れ笑った。
「この壁の絵を見て、すごく感動したんです。僕の憧れのアーティストです」
本人を前によくそんなことが言えるものだ。
自分の絵の価値さえ疑うような私に、その言葉はあまりに辛い。
「岬さんはこの絵を消すことについて、なんと」
私は彼の問いに驚く。どうやら、彼は私が『岬陽子』と気付かず話をしているようだ。
少しおかしくて笑った。笑ったのはいつ以来だろう。
なぜ笑われたのかわからないのだろう。彼は困ったような顔をしている。
この純粋すぎる青年の中の『岬陽子』像を崩すのは申し訳なく、私は嘘をつく。
「岬陽子は許可してくれた」
「そんな」
彼はショックを受けたような顔をする。
「だから、邪魔をしないで」
「……」
押し黙った彼は気の毒に思うが、もうこれ以上話をしたくなかった。こんな恥さらしの絵を褒められるなんて苦しいにもほどがある。
自分で価値を認められない作品を褒められてしまうと、どこかで期待してしまうから。
まだ、私にも可能性があるのではないか、と。
そんなもの、もうどこにもないのに。
「それでも、僕は……」
それ以降言葉が続かないのか、彼は押し黙ってしまった。
ぽつりと雫が落ちてくる。それは間もなく大粒の雨に変わる。
「ほら、早く帰った方がいいよ」
「……お願いします」
「ごめんね」
さすがの彼もこの雨に負けたのか、とぼとぼと歩き出す。だが、一向に傘を差さない。
私は思わず声をかける。
「傘、持ってないの?」
「え、あ、はい」
彼は困ったように答える。さすがにそのまま返すほど私は鬼じゃない。
「……入っていく?」
渋々そう言うと彼は目を輝かせて頷いた。
「うわぁ」
彼のその声が感嘆を表すことくらい、私にだってわかる。
店内も作品の一部と言っていい。だからだろう。嬉しいと思ってしまう自分がいる。恥ずかしくて仕方ないと思う自分もいる。入り混じる感情が私の心をかき乱す。
彼に席を勧める。
「コーヒーか紅茶、どっちがいい?」
「え、そんな。大丈夫です」
「いいよ。雨もしばらくやまなさそうだし」
「あ、えっと、いくらですか?」
彼は鞄から財布を取りだす。律義なものだ。私は首を横に振る。
「ペンキの片づけを手伝ってくれたお礼」
急に降った雨。五つもあったペンキの缶を一緒に運んでくれたのは彼だ。おどおどとした態度とは裏腹に手際よく片付けてくれたので、正直助かった。
私はカウンターに入り、業務用のアイスコーヒーをグラスに注ぐ。その間も彼は店内を見渡し、笑顔を浮かべている。
そのあまりに明るい瞳が私を惨めにさせる。大人げないと思いながらも、私はぶっきらぼうにグラスを差し出す。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
彼は縮こまってしまった。
雨はまだやみそうにない。私は諦めて、彼の前に座る。
彼はせわしなく店内を見たり、私をちらりと窺うようなそぶりを見せたりする。先ほどから苛立ちの止まないみっともない自分自身を持て余し、私も口を開かない。
雨の音だけが響く気まずい時間がしばらく流れた後、彼は小さく口を開く。
「あ、あの……」
「何?」
消え入りそうな声に返したつっけんどんな声。やってしまったと思いながらも、謝ることもできない自分が嫌になる。
彼が俯く。さすがに気分を害してしまったのだろう。私の心のもやは大きくなる。
だが、彼の口から出たのは思いがけない言葉だった。
「ここで、個展を開かせてください」
「は?」
素っ頓狂な声を上げる私をよそに、彼は早口に続ける。
「今はお金がないんですけど、その、お金が貯まったら、絶対、ここで個展を開かせてもらいたくて」
「はぁ……」
「あ、その、すいません。僕は静城芸術大学油絵コースの佐々木冬也と言います」
目を見開く。静城芸術大学と言えば私の母校であり、この店から歩いて十分ほどの場所にある大学だ。
私はデザインコースだったが、静城芸術大学の油絵コースがいかに才能の溢れた人々の集まりかということはよく知っている。
そんな彼がなぜこんな店で。
疑問が頭をもたげたが、それより、彼に伝えないといけないことがある。
「この店、もう閉じるよ」
「え……?」
「閉店するの」
彼は大きく目を見開いた。半開きになった口が、何かを告げようとするがうまく言葉が出てこない。そんな様子だ。私は苦笑する。
「そんなに驚くこと?」
「だって、その……僕は」
彼は目を伏せ、言い淀みながらも言葉を紡ぐ。
「この場所で個展を開きたくて……お金を貯めていて……」
今度は私が目を見開く。
「ま、待ってくれませんか」
彼が伏せた目を上げ、私を見つめる。
「僕のお金が貯まるまで」
「何言って」
「どうしても、このお店で個展を開きたいんです!」
彼の必死さは伝わってきた。だが、私には意味が分からない。
「どうしてこんな場所で」
「僕にとってとても大切な場所だからです」
彼は照れ笑いを浮かべた。
奥歯を噛みしめる。泣きそうになる自分を何とか抑える。
「できない」
私は小さく答えた。
「経営も傾いている。君だけのためにそれは」
「わかっています! 展示料は倍でも払います! だから、どうか、どうか」
彼は大きな声で言い、急に立ち上がったかと思えば、深く頭を下げた。どれだけ私が諦めるように言っても、彼は頭を下げっぱなし。
とうとう私は根負けして、長らく使っていなかった展示の金額や注意事項を書いた冊子を渡した。
彼はやっと頭を上げ、それを手に取ると、涙を浮かべて満面の笑みを見せた。
「ありがとうございます」
雨が上がった。彼が帰っていく。
窓越しに彼の後姿を見ているとその視線に気づいたのか、彼は振り返り何度も何度も頭を下げた。
私はただ唖然としていた。
私にとってはもはや苦しさしかないこの場所を大切といった彼。あそこまでの必死さ。
彼はこの店に何を見ているのだろう。
私はふらふらと、椅子に座る。
雨の上がった空。柔らかな日差しが窓からそっと射しこんでいた。
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