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麾下を集め、陣を分けての調練を、日が落ちるまで繰り返した。タンチョウ族との対峙を想定した実践的な訓練だ。
調練を終えた後は麾下を並ばせ、馬上から兵士の様子を見て回った。皆、いい顔をしていると思った。落伍者はなく、息が上がっている者もいない。
「比玄様のお望みはタンチョウ族の殲滅であるっ! 我が隊には、それを遂行する力がある!」
ラフリンが声を張り上げる。若き兵士たちは待ってましたとばかりに雄叫びを上げた。
「我が隊の勝利は敵を追い払うことではない! 追撃し、一人でも多くのタンチョウ族を討ち取りっ、座貫には優れた騎馬隊があるのだと奴らに示すことにあるっ!」
兵士から向けられるのは羨望の眼差しだ。慕われるだけの軍略の才を持っていることも、騎射が優れていることも自覚している。
だがその眼差しを素直に喜べるほど、ラフリンは過去に無頓着ではなかった。彼らに身体を開き、彼らの尿によって髪色を変えた。素顔を晒して、それでも羨望を向ける兵士はいくら残るだろうか。
「ラフリン殿っ!」
激励を終えて赤城に戻ると、ソピンが駆け寄ってきた。肩を上下させ、息が荒い。
「どうした」
「インフィンがっ……逃げました!」
「ふん、履き物もないんだ。そう遠くへは行かんだろう」
「城下町まで探したのですが、見当たらないんです」
「裏山は」
「山の先は崖ですから、逃げても無駄かと」
「崖だと知らなければ、そこへ逃げるだろう」
ラフリンは踵を返した。
馬鹿め。慰み役の分際で、この赤城から逃げようなんて。
根性なし。一日で音を上げるなんて。
足が勝手に忙しなく動く。逃すものか、逃すものかと反芻する。慰み役を放棄するなど許さない。
暗がりの茂みの中から、悲鳴のような声が聞こえた。ラフリンの足はそこへ直行した。
「た、助けてっ」
情けない声が崖の方から聞こえた。
崖の先には、折れ木に掴まる細い手があった。ラフリンはしゃがんで、折れ木にしがみ付くインフィンを見下ろした。
インフィンの瞳がパッと明るくなる。純粋な喜びの目を向けられ、ラフリンは困惑する。
「よ、良かったっ……足、滑らせてっ……」
「逃げようとした者を、助けるわけがないだろう」
意地悪を言うと、インフィンの大きな瞳からワッと涙が溢れた。予想通りの反応に、どういうわけか心が和む。
ラフリンは側にある木を掴んで、もう片方でインフィンの手を掴んだ。
「た、助けてくれるの?」
インフィンは途端に泣き止んだ。まったく単純な男だ。思わず頬が緩む。
ふいに、インフィンの手がラフリンの頭巾に伸ばされた。ラフリンは両手が塞がっているため、防げない。
インフィンの手が、ラフリンの頭巾をひょいと剥ぐ。ラフリンはギョッとしたが、それでもインフィンの手を離すことなく、身を委ねるインフィンを安全地帯に引き上げた。
「やっぱり栗色の髪の毛だ」
インフィンは無邪気に笑った。自分が何をしたのか分かっていないのだ。
「ふ、ふざけるな……俺はっ……将軍だぞっ!」
ラフリンは羞恥に顔を赤らめ、頭巾を目深に被った。美しい髪色の前に、自分の醜い髪を晒せる筈がなかった。
「なんで隠しちゃうのさ。せっかく綺麗な顔をしているのに」
「脱走の手引きを期待しても無駄だ」
「え? どういうこと?」
「ほら、戻るぞ」
手を引っ張ると、インフィンは大人しく従ってついてきた。
「ラフリン殿っ」
背後からソピンの声が聞こえ、足を止めた。
「良かった……見つかったのですね」
ソピンがインフィンを見やると、インフィンはラフリンの背に身を隠した。自分を信頼し切ったインフィンの態度に、鼓動が速る。
「比玄様が、今日もインフィンを連れてこいと」
ソピンが言う。インフィンはラフリンの体にギュッとしがみつく。
「お前は脱走を図った。今日は厳しい躾を受けるだろう」
ラフリンは殊更冷たく言った。インフィンの傷ついた表情に、胸がキツく締め付けられる。こんな男に同情してどうする? ラフリンは心の中で突っ込んだ。
「あ、あれからずっとお尻が痛いんだっ! 今日もなんて……む、無理だよっ」
「今日も、ラフリン殿が準備されますか?」
「いや、今日はお前に任せる」
インフィンの瞳に絶望が浮かんだ。
「承知しました」
「や、な、なんでっ……やだっ……やだよ!」
ラフリンの羽織にすがりつこうとしたインフィンの手を、ソピンがパシンと払う。
「やだ……蛇はやだっ……お願いっ……蛇はやだっ」
「ラフリン殿、粗蛇を使わなかったのですか?」
「ああ」
「では、僕も粗蛇を使わない方がよろしいでしょうか?」
「……それはお前に任せる」
ラフリンは二人に背を向けた。
自室に戻って横になるが、なかなか寝付けない。疲労は溜まっている筈なのに、脳が活発だ。何度もインフィンの顔が頭を過ぎった。
好かれている。と感じた。崖から引き上げたことで、すっかり心を許したようだった。やはりあの男は単純だ。それに弱い。あの弱さはやはり、恵まれた座貫の国土によるものだろうか。
「くそ……なぜ俺が……っ」
ラフリンはバッと身体を起こすと、壁に掛けた羽織を羽織って部屋を出た。アイツに粗蛇を使ってはダメだ。あの情けない男は、きっと泣いてしまうから。
焦りが歩調に現れる。自嘲の笑いがこみ上げてくる。
庭にある離れからはインフィンの悲鳴が漏れていた。ラフリンは扉を勢いよく開け、中に入った。
開脚したインフィンの股の間から、頭のない粗蛇がうごめいている。
「ラフリン殿?」
ソピンは寝台に腰掛け、帳面を開いていた。
ラフリンは浴槽の下で泣き叫ぶインフィンに歩むと、まだ侵入していない残りの本体を斬った。粗蛇は大きく波打ち、インフィンは産声のように泣いた。
蜜の入った壺を開け、それに浸した手をインフィンの口へと運んだ。インフィンが拒んだので、
「分からないのか? これは排泄を促すものだ。痛みなく粗蛇を吐き出したいなら、大人しく食え」
ラフリンは子供に聞かせるように言った。
インフィンは大人しく、ラフリンの手を舐めた。中に残った粗蛇が、ジリジリとインフィンの中から排出される。
「うう……痛い」
「無理に引っ張るよりは楽だ」
インフィンはラフリンの身体にしがみ付いた。
「蛇は……蛇は嫌だ……」
「ああ、蛇は嫌だな」
自分の口から発せられたぬるい言葉に驚いた。
「あ、あの……粗蛇を使ったのは、まずかったでしょうか」
ソピンが言った。
「いや……そういう訳ではないが……」
ラフリンはソピンを帰すと、インフィンを寝台に寝かせた。インフィンは粗蛇が余程怖かったのか、ラフリンに従順だった。
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