西の男と東の男

1/1

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

西の男と東の男

 あるところに、育ちも性格も考え方もまるで違う二人の男がいた。  片方は兄弟の多い家系に生まれ、もう片方は一人っ子。片方は裕福で、片方は貧しい暮らし。同じ街に生まれているが、東の端と西の端とでやはり彼らは互いの反対側にいた。  学歴は似たようなものだったから、同じ制服に袖を通してもいた。けれど彼らの姿勢はまるで違った。人と視線を合わせるための猫背と、人を見下すような仰け反り。遠目で後ろから見てもはっきりと違いがわかる。  ただまあ優秀な成績だけは似ているものだから、同じような知識量と頭の回転で、全く違う主張をすることがたびたびあり、学校の名物でもあった。  さて、そんな彼らが大人になってから行った口論はこうだ。 「金と愛、真に人生において重要なのはどちらか」  いつものように食い違う二人。片方は金だと宣言し、片方は愛だと叫んだ。  東の彼はこう言った。 「人は、誰かに愛されなければたちどころに生きてはゆけなくなるぞ」  西の彼はこう反論した。 「愛があれば生きることはできる。だが、愛を得るには金が要るものだ」  裕福な生まれの方がこうも言った。 「食事も寝床も、生きるための糧を得るには金が要る。対価が要る。必要ならば、愛は金で買える。だが金は、愛では得られまい。金は愛より優秀なのだ」  貧しい生まれの方がこう返答した。 「愛とは得るものではない、与えるものだ。それだけの富を持ちながら、何故そうも心は貧しい」  西の男に怒りを覚えた東の男は、ならばその人生でもって体現してみろ、とふっかけた。金の力に屈することなく生きられれば、お前の言うことを認めてやっても良いと。 コッペパンにベーコンを挟んだだけの昼食を齧りながら、残念そうな顔をして男は頷く。そうして彼らは人生を賭けた証明に挑み始めた。  さて、この勝負は命題こそ勝敗はついているように見えるが、どうにも生きているうちは豪華な髭を蓄えた男に有利だった。  愛を知る男は初めこそ、周りの友人に恵まれ自由に生きていた。対価に金こそなかったが、信用があるからこそできる労働でもって友人らの愛に報いた。食事の対価に、弟の子どもを見るベビーシッターを請け負ったり、寝床の対価に友人宅の家中の掃除なんかも任されたりした。金で買えない彼の親類や友人という立場は、報いて対等な報酬を受けるに値した。  だが男との賭けはこうだ。 「金の力に屈することなく生きてみろ」  彼の自由を垣間見た男は、蓄えた髭をふんと鼻息で揺らしながら、愛ある彼の兄弟友人らにこんな提案をした。 「優秀な家政婦を高い給金で雇い、君たちに提供しよう。金で信頼を契約した彼らを、無償でだ。君らに課す条件はただ1つ、あの男との一生の縁を断ち切るだけでいい」  顔を見合わせる西の人たちに、ふふんと笑って男は握手をした。  渋るような表情を見せた者には、何の意味を持つかも分からない報償を握らせた。初めこそ笑って生きていた、コッペパン好きな彼だったが、髭の男の策略にだんだんと曇った顔を見せるようになった。 「それ見たことか。愛はお前を裏切った。それに比べて金は偉大だ。簡単に人を動かすことができる。お前の言う愛など、あまりに儚いものだったな」  さあ、泣いて頭を下げれば恵んでやってもいい、と目を見開いた顔で罵り男を見下ろし、彼の行きつけだったパン屋を指さした。 その店もいつの間にか、立派な髭の男の肖像画が看板についていた。腹を空かせた男は力なく首を振り、鼻息に揺れる髭を見る。 「俺がここで地に頭をつければ、誰がお前に愛を教えるというんだ。まだだ、まだ俺は負けんよ」  諦めの悪い、意地っ張りのくそったれな男の背を見送り、髭はため息に揺れた。  くだらないプライド一つ、捨てて頭を下げれば好きなものがいくらでも食べられる。自分が間違っていたと認められれば、みすぼらしい格好で街を彷徨うこともない。同じ学び舎で共に同じ学びを得たはずなのに、どうしてこうも意見が食い違うものか。そう嘆きながら、東の男は自宅へと帰った。  ところが事態は一変し、金も男を裏切った。  腹を空かせて生死を彷徨えば、いくらなんでも頭を下げるだろうと思っていたが、どうやら東の屋敷の主を甘く見ている者がいたらしい。ゴミ箱の中に食べられるものがないかと探す彼の行く先で、コッペパンを落としてしまった通行人がいたそうだ。それも、一週間もの間ずっと、連日。新品の毛布をうっかりベランダからとしてしまい、ガッカリして譲ってしまった住人もいたそうだ。その前は新品のコートに、手袋に、マフラーも風に飛ばされたという。  世の中にはどうにも、ろくでもない奴がいる。金の指輪を十本の指につけた男に言わせれば、言われたこともできないくせに、余計なことばかりする奴らを指すのだとか。  屋敷の使用人に指示を出し、男は裏切った彼の元友人らを特定し始めた。見つけ次第片っ端から吊し上げ、契約違反だと渡した報償以上の金を求め、借金を背負わせたのだ。西の区画は以前よりずっと貧乏になったが、男は未だに憤慨していた。 「これは全てお前のせいだ。お前がくだらないプライドを捨てないせいで、お前に関わる者が皆苦しむことになるんだ」 「……なら、お前も今苦しいんだな」 「なに?」 「俺に関わる者皆が苦しむのなら、最ものたうっているのはお前以外にいない。俺は生涯、お前の笑った顔を見たことがない」 「いいや。お前が苦しむ度に、お前が間違う度に俺は笑っていたさ。自分の考えは正しかったのだと」 「いいや、笑ってはいなかった。お前の表情は、道具のように口角を上げていただけに過ぎない」  聞き苦しい負け惜しみに、男は首を振る。  くだらない、笑っていないからなんだというのだ。男はいよいよ、金に負けたことを認めたくない貧相な男を見限ってしまいたかった。どれだけ腹を空かせようと、もう手を差し伸べられる者はいない。  このままでは死んでしまいかねないのに。そこまで愚かな男だとは思いたくなかったが、死の間際ではそんなこともわからなくなるのかもしれない。男は地べたに座り込んで目を閉じている男を見て、そんな教訓を得た。  もし目の前にコッペパンの一つ、牛乳の一つでも差し出せば、こいつは飛びついてくるに決まっている。だがそうすれば、満足そうにそれらを堪能した後、それを男からの愛だと寝ぼけたことを言うに違いなかった。男は確信していた。富を持つ者だけができる施しだとは、決して言わないだろう。ここまで頑なに認めなかったのだ、最期までそれを信じていれば良い。  富を持つ者の矜持として、彼は与えることを厭わないつもりだった。貧しい者に施してやるのも、男にとってはやぶさかではない。  だがその矜持のせいで、くだらない男の賭けに負けるわけにもいかなかった。富を持つ者が与えるものを、愛だなどと宣われたくはなかった。  彼の死の間際に、つまらない手違いを起こしたくなくて、男はしばらくの間別荘へ身を潜めていた。じっと、じいっと、静かな時を過ごした。やがて、男が永遠の眠りについたとの知らせが入るまで、豪華な食事もせず、優雅な時間を楽しむこともなく、穏やかに過ごしていた。  さて、金を信じた男は、ついに賭けに勝った。だが勝利に酔いしれることは無かった。 元よりわかりきっていた結末だと、帰りの列車の中でコッペパンにバターを塗り、軽く炙った厚いベーコンとチーズを挟んで齧っていた。  貧しいというのはとかく、惨めでどうしようもないのだと男は正しく認識した。久しぶりに帰ったやけに静かな街は、男の葬式が行われていた。 「どういうことだ。あの男に関わるなと、約束を持って金を与えたのに。お前たちも金を払わされたいのか」 「いいえ。我々は約束を果たしました」 「何を言う。あの男との縁を切れと言ったはずだ」 「あなたは我々に課す条件はただ1つと言いました。彼との一生の縁を断ち切るだけでいいと」 「ああ、言ったとも」 「一生の、つまり生きた彼との縁は切ってしまいました。死んだ彼との縁には何も言われておりません」 「何を屁理屈を」 「……ああ、生きた縁すら切るべきでは無かったのに。金に目の眩んだ愚かな私たちに、あなたならまだ罰を与えてくれますか」  さめざめと泣きながら、静かに男を見つめる彼らはきっと金も愛も持ち合わせていたが、生きた目をしてはいなかった。ただ一つ、男の愛を失った程度で苦しむ彼らを愚かだと思い、半端なものが最も苦しむのだと理解した。理解したために、懐から札束を落とした。 「それで旨いものでもたらふく食って、欲しいものでもたんまり手に入れればいい。そうすれば、くだらない涙など流すことはない」 「なんと。なんと恐ろしい罰を考えたものだ」  彼らはある日の西の男のように、札束に背を向けて葬式へと戻った。くだらない、くだらないと何度も呟きながら男は自宅に戻り、そこで一通の手紙を受け取った。 「最期に君と話をしたくて屋敷に来たが、留守と聞いてガッカリしたよ」  男は手紙を受け取りいそいそと応接室へ向かった。  もしも彼がこの屋敷を訪ねてきたら、とある仕掛けをするよう男は使用人に任せておいた。応接室まで案内し、金庫を開けて大金を見せてやれと。欲しがるようならくれてやり、使用人も必要であれば手を貸してやれとも。  要は負けさえ認めれば、男は彼を生かしてやれるようにはしておいた。  だが男の意図に反し、金庫の扉は開いていたが中に入っていた金も宝石も、手をつけられた痕跡は無かった。あの葬式は茶番ではなかったかと、やはり男はガッカリする。 「顔を見られなかったのは残念だが仕方ない。みすぼらしい俺など見たくないだろうから、代わりに手紙を残しておこうと思う。便箋とペンは借りたが、これは君の使用人からの慈悲だから許してほしい」  手紙の文字は震えて読みづらかった。  男は便箋を見つめながら首を振り、男を憐れんだ。空腹を通り越して、文字一つ書くのもままならなかったのだろう。愛に生きた結果がこれか。粗末な葬式に、不義理な友人の涙。そんなものに見送られて灰になるなんて、なんと惨めなことだろう。そしてそれが、彼の望んだ愛のある人生の結末というのだから、到底理解できそうもない。 「君の使用人は金庫を開けてくれたが、そのままにしておいたよ。君にとっての、真に人生において重要なものは金らしいからね」  最期まで皮肉かと、髭を揺らしながら男は読み進める。 「俺も、俺の人生において重要なものは愛だった。その愛を壊されたら、ひどく困ったんだ。だからきっと、奪われれば君が困るだろうから、俺はやらないよ」  男は最後の一文に顔をしかめた。  ああやはり、最後まで彼とはわかり合うことはなかったのだと、火にくべて手紙は燃やしてしまった。 「それが、俺から君という友人に与えることの出来る、唯一の愛だ」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加