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28. 不安
「ああ。それはありがとうございます」
市条はそう言う声掛けには慣れっこのようで、営業スマイルで答えた。
それから加恵を見て、「加恵さんのお知り合いですか? もし良かったら、特別にお席をご用意しますよ。さあ、どうぞ」と二人に言うと、スタッフに「急いでご用意して」と指示を出す。
「ありがとうございます。娘を連れていますが、大丈夫でしょうか?」
健吾はベビーカーを示す。
「可愛いお嬢ちゃんですね。もちろん大丈夫です。お席の横に置けるベビーラックをご用意していますから、ベビーカーは入口でお預かりします。さあどうぞ」
市条がそう言うと、二人は肯いた。そして健吾が愛おしそうに沙羅を抱き上げ、沙由美がベビーカーを畳む。
その間に市条は、「じゃあ新、今度は夜にでも飲もうな。加恵さんもその時はぜひ一緒に、またお会いしましょう」と、二人をその場から解放するように言った。
「先輩、ありがとうございました」
「はい。ありがとうございます」
二人が市条に答え、それから健吾と沙由美に会釈して立ち去ろうとすると、健吾が加恵に、「じゃあ、来週のミーティングよろしく」と声をかけた。
「ええ。こちらこそよろしくお願いします」
加恵は最後にそう答えて新と店を離れた。
「別れた夫と新しい奥さんだったの」
散歩しながら家の方まで戻ろうかと話して、二人でゆっくり川沿いの遊歩道を歩きながら加恵は説明した。
「やっぱり、そうか」
新は察していたようだった。
「あ、誤解しないでね。未練とかないからね。それに、仕事も一緒にやるってちゃんと言えたしね。ただ……」
加恵は慌てて言った。
「奥さんの当たりが強いのがね。勝ち誇りたいのかしら」
加恵は苦笑いする。
やはり別れた夫が不倫相手だった今の妻と一緒にいるところに会うのは精神的にきつい。それを緩和させてくれたのが、新の存在だったと加恵は心の中で新に感謝した。
「そうかな? 不安なんじゃない?」
新がしばらくして口を開く。
「不安?」
「だって、結婚しているのに、自分が奪えちゃったんだろ? だったら今度は自分が同じ目に遭うかもしれないって、きっと不安で警戒してるんだよ」
それは思ってもみないことだった。あの強気の発言の裏には、そんな不安が隠されていたのかしら?
「意外ねえ」
加恵は新を見上げる。
「えっ? 何?」
新は加恵にまじまじと見られて焦った様子だ。
「新さん、そういう機微には疎いと思っていたのに、よくわかってるのね」
「まあね。ほら、銀座界隈だとさ、いろいろ夜の話は聞こえてくるわけ」
「えっ? そうなの? 老舗の名店の、しかも厨房にいたのに?」
「まあね。仲居のおばさん、いやお姉さん方が色々噂を集めては初心な若い料理人に教えてくれるのさ」
加恵は可笑しくてくすくす笑う。
「でもさ、加恵さんの元の旦那さんは、お子さんのこと目の中に入れても痛くないって感じだったから、奥さんがそんな心配することないと思うんだけどな」
新が言った。
悪気なく言ったその言葉に、加恵は怯んだ。
加恵の様子に気付かない新は、「ちょっと座らない?」と加恵を川沿いに一定間隔で置かれているベンチの一つに誘った。加恵は肯き、新の横に座る。
それからしばらく当たり障りのない話をしていたが、急に新が黙りこくった。
そして、「加恵さん」と新は改まったように言った。
「もし良かったら、俺と付き合って欲しいんだ」
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