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31. 元妻と現妻
「何を言ってるの?」
加恵は驚いて聞き返した。
「ですからそのプロジェクト、八木橋さんが下りてくれませんか?」
加恵はすぐに返事ができなかった。
「顔合わせは来週でしょう? 実質プロジェクトは動いていませんよね? だったら何の不都合もないじゃありませんか」
「ちょっと──」
加恵は慌てて言葉を遮った。
「一旦は引き受けた、しかもクライアントからの指名があったプロジェクトを断ることが、今後のキャリアにどういう影響を与えるか、あなたも同じ会社にいたからご存じですよね?」
加恵は思わず詰問口調になった。
ありえない要望だった。結婚生活を壊され、唯一残ったキャリアまでこの女は奪おうというのかと、内心腸が煮えくり返った。
「わかってます。でも嫌なんです。あなたが夫と接近するのが──」
それから、沙由美は加恵をキッと睨んだ。
「その目はなんですか? 私を蔑んでるの?」
「……」
蔑んでなんかいない。ただ呆れているだけ──しかし沙由美がヒートアップしそうで言葉にはしなかった。
「この前もそうよね? 市条朋樹と知り合いで私にマウント取ったつもり?」
「マウント? 何を言っているの?」
「私はもっと幸せで、あなたはもっと不幸でいると思ってた。なのに──」
身を折り、顔を両手で覆って沙由美はさめざめと泣き出した。
泣けばいいと思ってるのか? 加恵は思った。泣ける人はずるい、とも──。
「あなた、覚悟を持ってこの道を選んだのでしょう? 母親になることを望んだのでしょう?」
加恵の言葉が届いたのかわからないが、沙由美の泣き声はだんだん小さくなっていった。
その時、パーテーションの向こうに人の気配がして、見上げると健吾と鉄山が入ってきた。
鉄山が異常を察知して、健吾に知らせてくれたのだろう。
「沙由美」
健吾は落ち着いた声でそう言うと、沙由美を立たせる。沙由美は健吾の胸にもたれるが、ぼうっとしていて言葉はない。
「すまなかった。連れて帰る」
健吾はそう加恵に謝ると、鉄山が「タクシーまで手伝うわ」と言う。
「すみません。じゃあ、ベビーカーを」と健吾が頼む。
パーテーションを出ると、沙由美を抱えるように健吾が先を歩き、そのあとをベビーカーを押した鉄山が続いて、正面玄関の方へと歩いていった。
加恵は受付の所で足を止めそれを見送った。受付のスタッフ以外にも、何人か人がいて彼らを注目している。
数分、加恵が受付の横で待っていると、タクシーを見送った鉄山が戻ってきた。
「ありがとうございました」
鉄山の咄嗟の判断に助けられた。
「前園君が会議中でね、すぐ抜け出して来いって連絡したのよ」
鉄山は苦笑いする。
二人でエレベーターホールへ歩く。
「産後鬱っていうの? それで参ってるらしいわ、彼女。今日も心療内科に行く予定のはずだったって」
一緒にエレベーターで下りながら、健吾から聞いたという。
「いわゆる“略奪婚”でしょ? それを知る周囲の風当たりが強いまま出産を迎えて、まあ参ってしまったみたいね」
鉄山が続ける。
「気分転換に彼女が行きたい場所に連れ出したり、彼女の実家の近くに引越したりしたみたいだけど、こういうのはなかなかね。でもまあ、これも自業自得ってやつだから」
加恵が気にすることではないと、鉄山は言った。
「プロジェクトを下りてくれって直談判されました」
エレベーターに乗り込み、行き先階のボタンを押すと、加恵は打ち明けた。
「そんなこと、気にしちゃだめよ」
さばさばした声で鉄山は言う。
「はい。もちろんです」
加恵はきっぱり言った。
いろいろなことを諦めてきた。キャリアまで諦めたくはなかった。
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