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32. 海外赴任
いよいよ新プロジェクトのリーダー陣が集まる顔合わせの日がきた。
加恵がミーティングルームに向かうと、かつての高市産業のプロジェクトで一緒だった顔見知りのほか、新しいメンバーの顔もあった。加恵や鉄山が声をかけたり、健吾が誘った精鋭達だ。
PMの加恵を中心に、彼らが各チームのリーダーや、ステークホルダーとの調整役となって、実働部隊のエンジニアと共にシステム構築を進めていく。
時間が来るまで皆で談笑していると、開始時刻少し前に健吾が部屋に入ってきた。加恵は、健吾に続いて入ってきた男性の顔を見て驚く。
遠田晃彦だった。
(遠田さん? メンバーに入ってたっけ?)
加恵は今日の出席メンバーの名前を確認する。
遠田は健吾が尊敬する先輩で、加恵自身も何度も一緒に仕事をしてきた信頼できる大先輩だった。
二人の離婚の時も、離婚が決定的になって間に代理人を立てる前、二人の仲介役として、遠田とその妻が話を聞いてくれてとても世話になっていた。
遠田が健吾の隣に座り、斜め前に座る加恵と目が合ったので、加恵は小さく頭を下げた。遠田はにっこり笑って肯く。
「さて、今日はまず私から報告があります」
健吾が話し始めた。
「大変申し訳ないのですが、私はこのプロジェクトから外れることになりました。ただし、私の後任は隣の遠田さんが引き受けてくれたので、まったく心配ありません──」
加恵は驚きのあまり、その後の健吾の挨拶、そしてバトンタッチされた遠田の挨拶も上の空で聞いてしまった。
「では、PMの八木橋さんが作成してくれた予算案とスケジュール案、それに皆から集めたメンバーリストについて説明を。八木橋さん? 大丈夫?」
そう遠田に声をかけられて我に返った加恵は、「はい、すみません」と慌てて答え、モニターに自分の作成した資料を表示した。
ミーティングは二時間程かかったが順調に進んだ。
健吾が外れることについては、その後任が遠田ということで不安の声は聞かれなかった。
遠田は健吾の事業本部の、次か、その次の本部長候補と言われていたので、そんな彼が関わることは皆大歓迎だった。
ミーティング後、メンバーが去っていった部屋で、加恵は健吾と遠田とプロジェクトの話をしながら片づけをした。
「じゃあ、お先。また次のミーティングで」
遠田は二人を残して部屋を出ていった。よく話し合うようにということのようだ。
部屋には健吾と加恵の二人だけになった。
「その、どうして?」
加恵は尋ねた。
プロジェクトからの急な降板は、沙由美のことがあるからではないかと察していた。でなければ、熱心に取り組んできた案件を自ら下りるとは思えなかった。
「この前は悪かった。沙由美はあんな感じだから、これ以上不安にさせないように決めたんだ。実は……」
健吾は語った。
「シンガポールへ行くことになった」
「シンガポール? 海外赴任ってこと?」
加恵は驚いた。
「遠田さんに相談したら、ちょうどシンガポールのポストが空くので行ってはどうかと言われた。あとは引き受けるから、誰も知らない場所で一からやり直して来いってさ」
一からやり直す──。それは健吾と沙由美の結婚の経緯を誰も知らない場所で夫婦一から、という意味だろう。そこでなら、沙由美ものびのびと子育てができるかもしれない。
しかし──。
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