564人が本棚に入れています
本棚に追加
33. 贖罪と誓い
シンガポール赴任は健吾のキャリアのプラスにはならない。いや今までのキャリアパスからいってそれはマイナスだろう。
今のシンガポール支社はまだ新しく、本社で立案される海外プロジェクトの出先機関、実働部隊というだけで、シンガポールにいてはプロジェクトを主導する立場にはなれない。
「最初は義理の母にも一緒に付いてきてもらって助けてもらうことになっている」
加恵の心配をよそに、健吾は説明する。
「そう」
「沙由美が君に無茶なことを言ったのは聞いてる。すまなかった」
健吾は加恵に頭を下げた。
元妻ではなく、同僚として本当にこれでいいのかと思った。高市産業の篠塚がこの事を知れば、加恵でなく健吾がプロジェクトに残る事を望むのではないか?
そんな気持ちが加恵の顔に出ていたのだろう。
「高市産業の篠塚さんにも話して理解は得ている。これは僕の贖罪の気持ちだと思ってほしい。それと」
健吾は言葉を選ぶように、一旦言葉を切った。
「僕は君に誠実な夫ではなかった。でももう、前みたいな失敗は繰り返さない。沙由美と沙羅、いやそれは偽善だな、そう、僕は沙羅のために、夫婦関係を、この家族を守ると決めた」
健吾はきっぱりと言った。
加恵のためには出てこなかった言葉が、今、娘のために出てきているという事実を、加恵は重く受け止めた。
「わかったわ、頑張って。高市産業の件は任せてください」
加恵はそう答えた。
「うん。よろしく頼みます。じゃあ、行くよ」
そう言うと、健吾は部屋を出ていった。
その夜、加恵は泡子堂に寄ってしばらくの間、お地蔵様を見上げていた。心の中をなぜか寒々しい風が吹くような気がした。
加恵はただ、「ごめんね」と心で呟いた。
あなたの父親である健吾の愛情は、今はもう沙羅だけに向けられている。それが当然とはいえ、やるせない。そのことへの詫びだったのかもしれない。
「加恵さん?」
後ろから声がして振り返ると、新が立っていた。
「新さん」
その名を呼んだ途端に、心に温かいものが流れ込んできた気がした。
新は店を閉めようと外に出てきて、加恵に気付いたという。
「今、帰り?」
「うん。最近、忙しくて、これでも早く帰れた方なの」と言い訳をしてから、「この前はありがとう。ご馳走様でした」と付け加えた。
「こちらこそ。それより、店に寄ってよ。親父の許可が出て、ロールキャベツを今週から売り出したんだ。少しだけ残ってるから」
この前のことは忘れたような、屈託のない新の言葉だった。
「じゃあ、いただこうかな」
加恵も努めて明るく答えると、新のあとを追って店に入った。
その日以来、なんとなく二人の関係は新の告白の前に戻れたようで、加恵は仕事が終わるのが早い日は美晴屋に寄るようになった。
ただ、十月になってプロジェクトが動き出すと、遅い日が続いて慌ただしく日が過ぎていった。それでも、泡子堂へのお参りだけは欠かさないようにしていた。
同じ頃、健吾が妻子を連れてシンガポールに赴任したことを鉄山から聞いた。急な出発だったらしい。
「仕事でも家庭でも、これからいろいろ大変ね、前園君」
鉄山の声に同情する様子はなかった。
十一月になり、少し厚手のコートを着るようになってきた頃、加恵が仕事帰りに泡子堂でお参りをして美晴屋に寄ると、女将さんは留守で新がひとりで店番をしていた。
「加恵さん、煮卵サービスしておいたから」
「いつもありがとう。新さんの半熟煮卵、再現しようと思っても真似できないの」
「きっと加熱の時間かな」
そんな風に普通に会話を交わせるようになれて、加恵は嬉しかった。
加恵は美晴屋に寄ったあと、クリーニング店で衣類を受け取って自宅のマンションに戻った。エレベーターを三階で降りて、奥から二番目が加恵の部屋だ。
(……?)
加恵の部屋のその向こう、一番奥のドアの前に小さな人影があった。
近寄ってみると、ランドセルを背負った小学校低学年くらいの男の子がドアにもたれてしょんぼりしていた。
最初のコメントを投稿しよう!