36. 退院

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36. 退院

 次の日、加恵は仕事を終わらせると早めに退勤した。  商店街を通り美晴屋に寄ると、店頭に女将さんが立っていた。 「こんんばんは」  店に入ると、ご近所の久江が女将さんと談笑していた。 「あら、加恵ちゃん」  女将さんと久江が同時に言った。 「いろいろお世話になりました。主人、無事に退院できました」  女将さんの言葉に調理場を見ると、料理を作る新と、端に椅子を置いて座る旦那さんの姿が見えた。 「退院おめでとうございます」 「ありがとうございます。まだ麻痺が残っていて、リハビリに通う予定なの。包丁持てるようになれるまで頑張るって言ってるわ」  女将さんは嬉しそうに目を細めた。 「新ちゃんが店を守っててくれたからやる気が出たんだろうねえ」  久江が肯く。 「そうかもしれないですねえ。で、とにかく調理場にいたいって言うものだから」  椅子を置いて、疲れない程度に座って見ているのだという。 「でも新ちゃんは災難だよねえ。お目付け役がずっと睨んでるんだもの」と久江が言って、三人で笑った。  それからいくつか総菜を頼み、包んでもらう。  新が追加の総菜を持って店頭に出てきた。 「あ、加恵さん。いらっしゃい」 「こんばんは。旦那さんの退院おめでとうございます」  加恵の言葉に新は「ありがとう」と言ってから振り向き、調理場の父親に、「親父、加恵さんが退院おめでとうって」と言った。  旦那さんはすこし歪んだ顔で笑い、右手をゆっくり上げると「ありがとう」とゆっくりだがはっきりした声で答えてくれた。  年の瀬も押し迫り、来週はクリスマスというある夜、ハルが来て夕飯を食べていた時のことだ。 「クリスマスイブはお父さん、早く帰ってくるの?」  その日のメインは美晴屋のロールキャベツだった。ハルはロールキャベツは初めてだと嬉しそうに食べていた。 「クリスマス? 僕んち、やらないんだ」 「えっ? やらないの?」 「うん。僕んち、仏教徒だからそんなのいらないってお父さんが言うんだよ」  聞けば今まで、クリスマスケーキもチキンも食べたことがないという。 「そうなの?」  今時、そんな家庭があるのかと加恵は驚いた。  もしかしたら、ハルの父親の実家がお寺とか、あるいは男親でクリスマスを面倒くさがりそんな理由をつけてるのだろうかと加恵は考えた。 「それにお父さん、その日は帰りが遅いんだ」 「じゃあ、内緒でうちでクリスマスやる?」  思わず誘うと、ハルの目が輝いた。 「えっ? やった! いいの?」 「うん。お父さんには内緒ね」 「わかった! 楽しみ!」  ハルは嬉しそうに肯いた。  加恵も楽しみだった。  クリスマスが楽しみなんて久しぶりのことだった。去年のクリスマスは確か、コンビニでチキンとデザートを買って、一人で家で食べた。  健吾と結婚していた時は最初の頃こそいろいろ準備をして家で祝ったが、互いに仕事が忙しくなると、時間が合えば待ち合わせて外食するか、それも無理ならそれぞれ仕事仲間と食事をする感じだった。 「子供ってどんなのがいいのかな?」  ハルが帰ったあと、メニューを考えた。  まずチキンは子供が好きな唐揚げにしよう。それにオムライスとコーンスープ。ポテトサラダは時間がなければ美晴屋で買って、あとはクリスマスケーキ──。  前日のうちに買い物を済ませておいて、チキンは味付けして揚げるだけにしておこう。  ケーキは駅から商店街までの途中にある、洋菓子店で予約をしようか。  誰かのためにクリスマスの準備をする、その楽しさに加恵はわくわくしていた。
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