39. 隣の部屋

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39. 隣の部屋

 加恵はハルの部屋に鍵をかけている高橋に声をかける。 「あの……」 「ああ、どうも。お世話になります」  高橋は加恵を覚えていて、にこやかに挨拶してくれる。 「あの、その部屋のお父さんと男の子は?」 「は?」  今度は高橋が不思議そうな顔をする。 「確かその部屋、小学生の男の子とお父さんが住んでいたと思うのですが……」 「いえいえ、違いますよ。ここは去年空室になって、この一年は誰も住んでいません」 「えっ……」  加恵は驚くが、不可解そうな高橋の様子に、「あ、では、私の勘違いですね」と誤魔化した。高橋は会釈をし、エレベーターの方へ去っていった。  加恵は奥のドアを見つめた。  どういうことだろう? 一昨日だって加恵はハルと一緒に夕飯を食べ、ソファに座っておしゃべりしたのだ。  最初に会った時、ハルは確かに一番奥のドアの前で鍵がないとしょんぼり立っていた。ここに引越してきたと言っていたではないか?  しかし思い返してみると、加恵はハルの父親の顔を見たことがなかった。土日に二人を見かけたこともない。加恵がハルに会うのは、加恵の帰りが早い平日の夜だけだった。 「ハルはどこの子なんだろう。どこから来ていたの?」  加恵は買ってきたものをそこに置いたまま、外廊下を走った。エレベーターはすぐ来ないので、外階段を駆け下りる。  マンションの周囲をぐるりと回り、子供が行きそうな公園を二か所、巡った。でもどこにもハルの姿はない──。  もうハルには会えないのだろうか……。  最後に向かった場所は泡子堂、子供を守るお地蔵様の所だった。 「加恵さん?」  新が泡子堂の前に立っていた。 「新さん」    新とは久しぶりだった。高祥真由を店で見かけてから、加恵は美晴堂を避けてしまっていた。  しかし今はそのことは頭になかった。新の顔を見たら、それまで我慢していた涙が溢れだした。 「新さん、ハルが、ハルがいないの──」  加恵は新の胸に縋りついた。 「ハル君が? どういうこと? 場所を変えようか。そこで話を聞くよ」  昼間の商店街は人が多過ぎた。新は加恵を落ち着かせるように穏やかに言うと、加恵の肩を優しく支えて歩き出した。  五分後、二人は川沿いの遊歩道のベンチに座っていた。  加恵は今日、不動産会社の高橋と会って話したことをぽつりぽつりと話した。 「きっと近所に住んでいる子なんだよ」  新が言った。 「どこかで加恵さんを見かけて、優しそうな人だなと思ってさ、咄嗟に隣に住んでるって言ったんじゃないかな?」    それから新は、「そういえばクリスマスのことなんだけど」と続けた。 「クリスマス会のあと、ハル君と一緒に加恵さんの部屋を出ただろ──」  ハルは隣には帰らず、「お礼におじちゃんを下まで送る」と言って一緒にエレベーターホールに着いてきたという。 「そこでハル君が、『僕がエレベーター、おじちゃんが階段で競争しよう』って言い出してさ」  ハルがエレベーターに乗ったのを確かめてから、新は外階段を駆け下りた。加恵のマンションのエレベーターは速度が遅く、新の方が先に着いてエレベータ―が下りてくるのを意気揚々と待っていたら──。 「一階に着いたエレベーターが開いたら、誰も乗っていなかったんだ」 「えっ?」 「ハル君の悪戯だとその時は思った。二階で自分は降りて、空のエレベーターだけを下ろしたんだなって。しばらくハル君を待ったけれど……」  “おじちゃん、びっくりした?”と階段を下りてくるかと思ったがそれもない。きっと子供らしい気まぐれでもう三階の自分の家に帰ったのだと思い、新も帰ったのだという。 「マンションに住んでないって知られるのが嫌でどこかに隠れてたのかな。でもさ」  新は加恵を見た。 「ハル君が近所の子だったら、またきっと会えるよ」    そうであればいいと思って、加恵は素直に肯いた。
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