4. 新

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4. 新

 美晴屋に通ううちに、時々見かける若い男が従業員ではなく、店主夫妻の一人息子の(しん)だということを加恵は知った。  新は、今年三十二歳の加恵より二つ若い。都内の調理専門学校を卒業後、加恵も名を聞いたことのある銀座の日本料理の名店で修業をしていた。  そして仕事が休みの日には美晴屋を手伝っているのだった。 「不愛想なのが困りものなのよね」  女将さんは奥にいる新には聞こえないよう、小声で加恵に囁いた。 「でも、腕はいいの。親方にも気に入ってもらって、跡を任せたいなんて言われているらしいわ」  夫婦で新年の挨拶に行った時、親方からそういう意向があることを告げられたと、女将さんは嬉しそうに語っていた。  確かに新は腕のいい料理人のようだが、無口だった。  女将さんがいない時に新が接客してくれたことがあるが、最低限のことしか話さない。  ある時、家に帰って包みを開くと頼んでいないお惣菜が入っていたことがあった。  次に新が店番していた時にそれを告げてお金を払うと言うと、「あれはおまけです。いつも贔屓にしてもらってるから」とぼそっと言われた。  その困ったような表情に加恵は可笑しくなったが、贔屓客を想う気持ちは伝わった。  またある時、こんな出来事があった。  加恵が仕事帰りに美晴屋に寄ろうと店の前に差し掛かると、杖をついた高齢の女性が店から出てきた。 「あっ!」  加恵は思わず声を上げた。  女性の目の前をスピードを落とさず自転車が通り過ぎ、驚いた女性は尻餅をついてしまったのだ。 「大丈夫ですか?」  加恵は急いで駆け寄って傍に屈んで聞く。 「ああ。ええ……」  女性はびっくりしたのか腰を抜かして座り込んだまま起き上がれない。 「久江(ひさえ)ばあちゃん、大丈夫?」  すぐに店から新が飛び出してきた。美晴屋の馴染み客らしい。 「立てるかい?」  新が傍に屈んで聞く。 「ああ、新ちゃん、大丈夫だよ」  久江と呼ばれた女性は、加恵と新に両脇を支えられ、ゆっくりと立ち上がった。 「病院、連れて行こうか? 金子(かねこ)先生ならすぐ診てもらうよう頼めるよ」  金子先生というのは、商店街のはずれにある金子整形外科のことだろう。七時を過ぎ、診療時間は終わっていたが、近所のよしみで頼めるのだろう。 「ああ。ありがとう。でも打っただけだから大丈夫だと思う。一晩寝ても治らなかったら、明日、息子が休みだから連れて行ってもらうよ」  二人がそんな話している間に、加恵は散らばった荷物や杖を拾い集める。 「息子も帰ってるだろうし、とにかく帰るよ」  そう言って久江は一人で歩こうとするが、打ったところが痛いのか顔をしかめる。 「それなら俺が家まで背負って送ってくから」  そう言うと、新は久江の前に屈みこむ。 「新ちゃん、悪いねえ」  そう言って、久江は新に背負われた。 「加恵さん、それを」  新がそう言って加恵が集めた久江の荷物を受け取ろうとするが、杖にバッグ、それに美晴屋のお惣菜やドラッグストアの袋といろいろある。久江を背負った新が持つには多すぎた。 「手伝います」  加恵は咄嗟に申し出た。
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