40. 夢の中で

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40. 夢の中で

「加恵さん」  しばらくして新は改まった口調で言う。 「本当にこいつは空気が読めないって呆れられるかもしれないけれど、もう一度話を聞いてほしい」    突然の言葉に加恵ははっとして新を見上げた。 「やっぱり、俺、加恵さんを諦めきれない。結婚を前提に付き合ってほしい」  加恵が何か言おうとするのを押し留めるように、新は続けた。 「加恵さんに仕事を諦めてもらおうなんて思ってない。美晴屋はお袋もいるし、加恵さんは好きに働いてくれていい。ただ、俺の側にいてほしいだけなんだ」 「でも」  加恵は聞いた。 「高祥のお嬢さんは? お店に立っていたわよね?」 「ああ」と新は思い当ったように肯いた。 「お嬢さんが美晴屋の嫁になるって頑固に言うんで、親方がほとほと困ってさ。一週間美晴屋で働かせて大変さを教えてやってくれって」  女将さんがそう頼まれて、アルバイトで来てもらったのだという。 「一生懸命やってくれたけど、お馴染みさんのお喋り、特にお袋から事情を聞いていた久江ばあちゃんがすごい無茶振りするもんだから、三日で辞めて帰っていった」 「そうだったの」  真相を知りほっとしている加恵がいた。  真由のことを一途に想う弟弟子がいて、いつかその想いが叶えばいいと思う、そう新は続けた。 「もしかして、妬いてくれた?」  声が嬉しそうだった。 「ええ。そうかもしれない」  加恵はもうその気持ちを否定しなかった。 「新さんの気持ちはすごく嬉しい。でも……」  加恵はそこで初めて、流産した時に子供が産めなくなったことを正直に打ち明けた。 「そんなことは関係ない」  新は(ひる)むことなくきっぱりと言ってくれた。  嬉しかった。けれど──。  健吾だって最初はそうだった。術後病室で、「子供がいない人生もいいじゃないか」と手を握ってくれた。それなのに……。  人の気持ちが変わってしまうことを、加恵は知っていた。いつか新も、自分の子供が欲しいと思うようになるんじゃないか──。 「今すぐ答えてくれなくていい。じっくり考えてみてほしいんだ」  新はそう言うと、そろそろ戻ろうかと言った。  その夜のことだ。  ベッドで加恵が眠っていると、ふいに誰かが布団の中で加恵に抱きついてきた感覚があり目が覚めた。いや、それ自体がまだ夢の中だったのかもしれない。  ハルが加恵の胸に抱きついて、加恵を見上げていた。  不思議だったが怖くはなかった。 「ハル、どこに行ってたの?」  加恵もハルを思い切り抱きしめると、耳元で聞く。 「ぼく、そろそろ生まれ変わるんだよ」  唐突にハルが話し始めた。 「えっ?」 「でもね、お地蔵様が、ハルのお母さん『ごめんね』って謝ってばかりだから、生まれ変わる前に会いに行っておいでって来させてくれたの。僕、お母さんと一緒で楽しかったよ」  ハルはにっこり笑う。  それでは、ハルは、ハルは……? 「お母さん、もう大丈夫だよね? だってお母さんはもう独りぼっちじゃないんだから」  そう言ってハルは加恵を見上げて笑うと、もう一度加恵にぎゅっと抱きついて、それからふっと消えてしまった。  それは夢だったのだろう。でもハルの温かさや、ハルの匂いが加恵を包み込んでいた。  目が覚めた加恵は泣いていた。  でもそれは決して哀しみの涙ではなかった。
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