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9. 噂
夫婦ともに同じ会社だったので、社内不倫で部下を妊娠させた健吾の立場は一時悪くなった。
しかし健吾が有能だったのと、加恵がすぐに離婚を受け入れたのもあって、健吾へのペナルティは次の昇進を見送る程度で済んだようだ。
沙由美は加恵達が離婚する頃に会社を退職した。
沙由美が同期の女性社員に、
「もともと夫婦関係は崩壊していて、離婚は秒読みの段階だった」とか、
「奥さんがキャリア志向で子供を産む気がなくて、彼は寂しかったんだと思う」
などと語っていることは、加恵の部署にいる沙由美の同期の女性社員が憤慨して教えてくれた。
しかしどうやら健吾は、加恵が子供を持てない身体なことだけは沙由美に告げていないようだった。
それは健吾の加恵への思いやりなのか? あるいは情けなのか?
しかしもうどうでもよかったし、いろいろな噂を否定することはしなかった。
加恵の仕事を評価してくれている女の上司に、「仕事だけは辞めたらだめよ」と言われ、周囲に励まされて続けて今に至っている。女の意地もあった。
健吾は加恵より三つ上なので、今年三十五歳だ。沙由美は確か二十六か七だったと思う。
沙由美の好みなのだろうか、去っていく健吾は昔なら選ばなかった薄いピンク色のポロシャツを着て、白いパンツを履いていた。
健吾は若く見られたし、見映えもいいので似合わないとは言わないが、昔からの健吾を知っている者ならきっと違和感を抱く、そんな恰好だった。
いや、それだって単なる自分の僻みなのかもしれないと加恵は思う。
沙由美は白の涼し気なワンピース姿で、子供を出産したとは思えないスリムな体を維持していた。ナチュラルブラウンの髪の毛は綺麗にカールして、子育て中とは思えない可愛いらしさだ。
そう、二人合わせれば絵に描いたように幸せそうな夫婦だった。
(二人を見て逃げ出してしまうようではまだまだ駄目だ)
加恵は自虐的に思った。
早々にショッピングモールをあとにした加恵は、泡子堂公園前商店街に歩き、お地蔵様にお参りした。
(ごめんね。でも私はあなたを忘れないからね)
父親である健吾には失った子はもう過去のものなのだ。でも加恵だけはずっとあなたを忘れない、そんな気持ちを心の中で伝えた。
それから美晴屋に寄ろうとしたが、今日はシャッターが閉まっている。今日は定休日ではない。
こんな気分の時こそ、女将さんの優しい笑顔を見たかったと加恵は思う。
シャッターに白い紙が貼ってあるに気付き、加恵は近くに寄ってみた。
──都合によりしばらく休業します。 店主──
そう書いてあった。
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