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エピローグ 「これから」
梅雨が明け、暦は七月へと変わる。
湿度と暗澹から、湿度と照る暑さへの変化があった。
部分的にしか変わっていないではないか、という自虐と、しかし自然の法則として、大掛かりな変調はあり得ず、それが起きた時は人類滅亡である、という無意味な思考で、僕は退屈をしのいでいた。
ここ一週間ほど、彼と会っていない。
連絡先はとっくに交換していたけれど、特に何も聞いていない。事前に長期予定の連絡などもなかった。
僕は彼のことを気に掛けながらも、普段通り授業を受けて、勉強をして、変わらない日々を送っていた。
特に焦る理由もない、と考えていた。彼も忙しい時があるだろうし、いざとなれば連絡すればいいだけのこと。あとは単に、彼も僕も、頻繁にメッセージや電話をする習慣がなかった。小まめな連絡で相手と自分自身を束縛することが苦手なためだ。
授業の合間や、学食にいる時などに、ふと寂しくなると、僕は彼がくれた、あの手紙を読み返して過ごした。
不躾な手紙で、不可解なことを聞くよ。
君は色を知っている?
君は音を知っている?
こうして新しい生活を初めて。
新たな知見を学んでいるよね。
活かすために知ろうとしてる。
人は知識を得て、常を築き上げた。
常識を、規範を、人としてあるべき道徳を。
そうした繰り返しを経て、現代という今がある。
それでね、その常が、僕を悩ませるんだ。
僕は、どうするべきだろう?
人は、どうあるべきだろう?
正しさとは、常なのかな。
常は、絶対なのかな。
例えば、誰かに恋をしたとして。
それが常ならぬ恋であったなら。
たしなめられるべき?
望んではいけない?
潔く諦めるべき?
恋は悪なのかな?
でもね。
どうしても。
僕には、そうは思えないんだ。
僕はね、そうは思わないんだ。
どうにも叶わなかったとしても。
許されないことだったとしても。
周りから、笑われてしまっても。
素直でいたい。
伝えてみたい。
この気持ちを。
言葉にしたい。
形にして手渡したい。
僕は、こう思う。
君は、どう思う?
常とは異なる想いは悪だろうか?
選択することすらおこがましい?
笑うことすら許されない?
不躾な問いを許して欲しい。
僕という人間を赦して欲しい。
ねえ。
君は、恋を知っている?
一週間と二日後。
正確には、二百十六時間ぶりに。
彼は大学に現れた。
僕が登校していると、正門を背もたれにして、彼が待っていた。
通りすがる学生達の視線をものともせず、門へと歩き寄る者達その方向へ顔を向け、視線を巡らせていた。
僕は、彼の外見の微妙な変化に気づいて、少し驚く。
その場から駆け出して、彼がこちらに気づくとほとんど同時に、彼の前に立った。
「おはよう。久しぶりになっちゃって、ごめんね」
彼は変わらず、明るく柔らかな口調で言った。
「いいよ、全然。僕も連絡しなかったし」
言葉を交わしながらも、僕の視線は彼の髪へと向いていた。
金色の綺麗な髪。
その毛先の長さが違う。
前髪も短くなっているし、ちらと覗き込んだ彼の背中。そこに流れていた金色は、以前と比較して半分にまで減っていた。
「美容院に行ったの?」
気になってたまらず、僕は疑問を口にする。
「ああ、これね。大部分は、自分で切ったんだ。どうかな?」
「えっ? セルフカットなの?」
僕はまた驚いて、再度彼の変化した毛先と、今度は全体として捉え、観察する。
とてもバランス良く整っている。不均一なところはないし、かといって真横に鋏を入れたような水平揃いでもない。目立った粗はないように見受けられる。似合ってもいる。僕個人が、長さが変わった、という事実をまだ現実として受け入れられていないだけ。
「短くしたかったから切ったの? 髪型を変えてみたくなったとか」
「実はね、僕、美容師を目指すことにしたんだ」
彼の返答に、僕は数秒のラグを生じたのち、あ、なるほど、と理解した。どうもまだ情報のフィードバックが本調子ではないらしい。
「その勉強と実践を、この一週間、やっていたわけだね?」
「そうそう、そういうこと」
彼は嬉しそうに頷いて肯定する。
「君と将来の話をした後でね、仕事にするなら、指先を使うようなものがいいなと考えて、君が褒めてくれた髪のことを考えてて、自分の髪を眺めてるうちに、思いついたんだ。で、動画を観たり、美容院にも行ったよ。そこではほんの少しだけ切ってもらって、そのカットの様子を観察したりね」
「あぁ、それで、大部分は、なわけだ」僕は納得して首を縦に振る。
「でも、美容師になるには、専門学校を出なくちゃいけなくて、入学のタイミングも逃しちゃってるからさ。今年いっぱいはアルバイトをして、来年用の学費を貯めることにしたよ」
「そっか。専門学校へ通うにしても、時期の問題があったね。うわぁ、そこだけ悔しいね」
「うん、でも、もしスムーズにこの進路希望を抱いていたら、こうして君と出会えなかったから、だから僕は、後悔なんてしてない」
彼は僕の手を取り、告げた。
僕は微笑み、彼の手を握り返す。
画家という理想は諦めざるを得なかったかもしれない。
だけど、彼の器用なこの手が、役目を失うことはない。
彼は先を見据えている。こんなにも活力に満ち、まだ見ぬ未来を生きようとしている。
とにかく素晴らしいではないか。前向きとは、彼の為の言葉だとすら思える。
そして、変わらず僕を捕まえていてくれる。
初めの長さとは違ってしまったけれど、彼は彼で、美しさも変わらずで、それどころか、それはより洗練されて、磨きがかかりつつある。
その彼と共にいられることは、何にも代え難く、何よりも幸せで。
そんな彼にこそ、頼みたいことができた。
「実際にカットするのが、一番の練習になるよね?」
「えっ? ああ、うん」
僕の問いに、彼は短く瞬きをした後、頷く。
「僕さ、今の流行りとは真逆な、やってみたい髪型があるんだ」
僕は彼の目を見たまま、そう言葉を継ぎ足した。
彼は。
僕も。
互いに遅れて。
笑みが零れる。
どちらからともなく。
一歩踏み出し。
顔を寄せて。
キスをした。
二回目だ、と考えながら。
震える感情に浸りながら。
風に流れる彼の髪が、僕の頬に触れた。
まだ、これほどに長い。
妙な部分への執着に、ひっそりと笑う。
まったく、どうにも、仕方のない。
彼の存在を感じる。
不思議だ。
初めて目にした時から、そうだった。
彼の綺麗な髪が、僕の目を引いた。
あの瞬間から既に、惹かれていた。
僕達にとっての運命、その色は。
常とは異なり、赤ではなく、金色で。
その色こそが、彼の色で、彼らしくて。
ささやかな違いそれこそが、僕達らしさなのだ。
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