震える猫

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これが何かの始まりかもしれない、などという予感は微塵もなかった。 興味を惹かれただけ。純粋な動機だった。 学校からの帰り道。 いつもの通学路で、私は猫を見かけた。三毛猫だった。 しなやかで、愛らしい、痩せても太ってもいない、健康そうな子。 一見した際は、普通の子だと思った。 その姿を認めると同時に、自分の口角が自然と持ち上がるのを自覚しつつも、私は通り過ぎようとして。 ふと気づいた。 その子が震えていることに。 座って、伸びをして、また座る。 いずれも猫らしい動作。愛らしい行動。 そうした動きの中、それでも震えたままなのだ。 特別、猫の生態に詳しいというわけではない。 自分で飼ったこともない。友達の家に猫がいるから、その子と幾度が遊んだことがある、それくらいの経験値しかない。 それでも、この様子はおかしいのではないか、と感じた。 今日は別に寒くない。まだ夕方で気温は低くないし、昨日を含めて雨も降っていない。そもそも梅雨明けの時期だ。寒いという状態にはなりようがない。 それなのに、こうも震えるのは、何かしらの病気か、私の方向から見えないだけで、怪我をしているのかもしれない。 どうにも気になった私は、そろそろと、その子の側まで摺り足で近づく。 驚かせてしまわないように、警戒されないように、と気を遣ったのだけど、それは無用だったらしく、その三毛の子は大人しく、また人懐っこい性格をしていた。 私が触れても嫌がらず、逃げ出さず、むしろ私の手に頭を擦り付けて、身体全体で甘えてくれる。 あまりの可愛さに、当初の疑問と目的を忘れて、私はその子を撫でまわしていた。 そうしていうちに、ここが通学路であったこともあり、私以外の中学生達が、私とこの子の側で立ち止まり、私達の様子を眺めながら言葉を交わした後、私と入れ替わりで、この子を撫でて、この子と遊んだ。 距離を置いてようやく、私はこの子の様子への疑問を思い出した。 けれど、先程まで元気に遊んでいたし、全身を触ったけれど、どこにも異常は見当たらなかった。 では、あの震えは何だったのだろう? 猫の気まぐれな動きだっただけ? 思いつきで、お遊びで、あんな動きをしていたの? そんなことできる? あくびや伸びの動作の余韻としてなら、それらしい動きは見たことがあるけれど、あそこまでぶるぶると、全身を震わせるような動きを私は知らない。それゆえ気になったのだ。 首を傾げつつ、でも、元気なら良いか、と独り納得して、学生達に囲まれる猫を一瞥した後、その場を離れて帰宅した。 異変は翌朝からだった。 朝起きて、ベッドから降りて、自室のドアノブに触れようとしたら、自分の左手が震えていることに気づいた。 それも多少ではなく、ぶるぶると、凍えてしまい、自分の意思では制御できなくなった時のような震え方である。 おかしいな、変なの、と思った。私自身はどうしてだか冷静だった。 筋肉痛ではないし、寒くもない。それなのにこの震え方は妙だ。 リビングへ移動して母にこの事を告げると、母の方が声を上げて驚き、大騒ぎをした。 出勤直前だった父も玄関から飛んで戻ってきて、私をリビングの椅子に座らせて、動かないように、と強い口調で言った。その後、父は会社へ電話をして緊急で休むことを伝えた後、病院へも電話をかけて救急車を呼んだ。そこで分かったことは、父は私が、頭部をどこかでぶつけたのかもしれない、と発想したこと。その外傷が脳付近にダメージを与え、内出血などを引き起こし、結果的に痙攣を引き起こしている可能性がある、と。だから、できるだけ動くな、と私に告げたのだ。 でも、これは勘違いだった。 パジャマ姿のまま救急車で運ばれ、検査を受けた私の身体は、しかしどこにも異常はなかった。 むしろ異常は私だけでなく、病院内にあった。 私と同じ中学校の生徒が幾人か、私と全く同じ症状で運ばれていたのだ。 全身の震えが目に見える症状であり、でも、おかしな点はそこだけ。意識ははっきりしており、体温にも脳にも異常は見られない。言語にも問題はなく、意思疎通もできる。食欲もある。 一つ気づいたのは、運ばれて来ていた学生達の数名に見覚えがあったこと。 私は震える両腕を組み、頑張って思い出す。 ああ、そうだ。 つい昨日見かけた子達だ。 丁度、あの猫を囲んでいた子達。 私に話しかけてくれて、少しだけ言葉を交わした。 猫が可愛いとか、人懐っこいねとか、そんな他愛ない会話をした。 この気づいた事実を、私は誰にも伝えられなかった。 大した情報ではないと思えたし、何より、大人達は、私達以上に大騒ぎをしていたから。 それはもう、ほとんどパニックと表現して差し支えない状態だった。 どんな検査をしても原因が判らない。集団ヒステリーだと断言する者もいれば、ウィルス性の何かが原因だったらどうするのか、今すぐに隔離するべきだ、危険だ、と騒ぐ人もいる。それらの意見対立をお医者さんが間に入って止めつつも、お医者さん達も困っているみたいだった。可能性について話し合いながら病院の廊下を足早に過ぎていくところを見かけたので、それが分かった。専門的な知識があるだけに、この震えの異常性がより浮彫となるのだろう、と私は想像した。 結局、その日は、私は学校を休まされて、病院に泊まることになった。念のため、という一言の理由だけ告げられた。大人は上手いな、と感心した。 私以外の学生達も入院させられていた。良い機会だったのでお話したかったのだけれど、そうした自由は病院内では許可されなかった。これも、念のため、という言葉で押し込められた。大人はずるいな、と不服に思った。 事態は翌日には、さらに悪化した。 震えが病院内にいた者達全員に表れたのだ。 お医者さん、ナースさん、果ては私達以外の、私達とは全く異なる理由や怪我などで入院していた患者さん達にも伝播した。 これには、病院がひっくり返るほどのパニックが起きた。 そして、この先はもっと大変だった。 完全隔離に始まり、応援の人達が来て、防護服という仰々しいものを着て建物内に入ってきて、それでもその人達にも震えの症状が出たらしくて、同時に、この病院には近づいていなくても、その近くに住んでいた人達にも震えが出始めたとニュースで報じられた。 どうやら、震えの症状が出ている者に関わった人、近くにいたというだけの者にも、震えは簡単に伝播するらしい。 それらしい条件が判明して、多くの人達が体感的にそれを理解する頃には、日本国内人口の約半分に、この震えの症状が移ってしまっていた。 とっくに社会問題となっていたけれど、何がどう問題か、と聞かれたなら、多少不便だ、くらいのものだった。 全身がぶるぶるするからと言って死んでしまうわけではない。風邪や熱の方がよっぽど辛い。 最初期こそ、ニュースなどで大問題のように報じられ、議論され、ネットでは叩かれたり、皆が皆好き勝手なことを言って、あることないこと情報が錯綜して大騒ぎだったけれど、国内での伝播状況が広がるにつれ、諦めというか、適応する方向へ対応がシフトしていった。人間ってすごいな、という感想を私は抱いた。 そんな遍歴を辿っているうちに、一年が経った。 病院を出て、また学校へ通えるようになったことが嬉しかった。元気が有り余っている学生に、病院の部屋は狭過ぎる。 今までと全く同じ形式とはいかないけれど、それでもどうにか上手くやりつつ行われる授業を受けて、お昼ご飯を食べて、部活動をして、そして通学路を歩いて帰る。 他愛ない日々だけど、こんなふうに生活できるのは幸せなことだったんだな、と分かった。それだけでも、あの入院生活の日々は良い経験だった、と評価できる。少なくとも私自身は、そう捉えていた。 帰り道を独り歩いていると、石ブロックの上に三毛猫が乗り、丸くなっているのを見つけた。  しばし見つめて、ああ、前にもこの道で見かけたあの子かな、と思った。  足音を立てないように、ゆっくりと近づいて、その子に触れる。  猫は逃げるでなく、私の左手に頭を擦り付けながら小さく鳴いた。やはりそうだ。あの子だ。 「ただいま~久しぶりだねぇ。元気だった?」  猫なで声で話しかけながら、私は人懐っこいその子を石ブロックから抱え上げて、制服に毛が付くのも構わずに抱っこする。  さすがに怒るかな、とも思ったけど、猫は喉を鳴らして、私に抱かれるまま。  そこでふと、思い出した。  初めてこの子と会った時、この子がぶるぶると震えていたことを。  あれは、何だったのだろう?  考えてみれば、震えていたこの子と触れ合った次の日から、私の震えの症状が出たのだ。  偶然だろうか?  それは、そうだろう。  だって、常識的に考えるなら、そうだ。  偶然以外あり得ない。 「う~ん、いやぁ、さすがに、お前は無関係だよねぇ?」  私は、猫へ向けて問いかける。  猫が私の顔を見る。  可愛らしい目で。  愛らしい表情で。 「ほら、見て? 私の手も、身体も、震えてるでしょう? これ、まさか、お前が移してきたとか、あり得ないよね、ってこと。初めて会ったさ、お前、震えてたでしょう? ああ、違うよ。責めてるんじゃないの。仕組みが知りたいだけで」  私は、にっこりと笑いながら猫に語りかける。  人と会話する時みたいな感覚で続けているうちに、変に楽しくなってきていた。  どことなく通じているような気がして。  私の疑問を受け止めてくれているような錯覚があって。  だから、つらつらと打ち明けていたのだ。  それだけのつもりだった。  確信などなかった。  おふざけで始めたこと。  その延長だったのに。 「バレたか」  明らかに、猫が応えた。  声に合わせて、口が動いていた。  私は、それを見逃さなかった。  見逃せた方が良かったのかも。  低い男の人の声で。  私の腕の中から。  間違いなく、この子が。  そう呟いたのだ。
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