国産みかんゼリー

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 タケルと私はみかんゼリーが好きだった。  どのみかんゼリーでも良いわけではない。  近所の小さいスーパーで売っている、紙の容器にかわいい笑顔が書いてあるゼリーだ。安いのに美味しくて、容器も小さくて、子供向けの商品なのかもしれないが、大好きだった。  食後に彼とよく食べた。 「笑顔のゼリー、食べよう」  そのゼリーは二人のなかで『笑顔のゼリー』という名前になっていた。  夏は遠くで上がっている花火を、ベランダから眺めながらゼリーを食べ、冬はストーブの前で肩を寄せ合い、赤いストーブの灯りに顔を照らされながら食べた。  十一年。  ずっとこうして一緒にいると思っていた。  貧乏だけど、底辺かもしれないけど、幸せに年を取っていくんだと思っていた。  まさか四十になって、彼とお別れすることになるとは。  例えば彼にほかに好きな人ができたとか、浮気をされたとか、私のお金を使われたとか。直接的で具体的な原因があったら、私はその原因と向き合って、いずれは立ち直れたと思う。  しかし、明確な理由はなく、ただ、少しずつ優しさを失くしていく彼のそばにいて、私は自分の『価値』がもうないんだと、気づかされてしまった。  一緒に暮らしていたアパートの部屋からは、先に彼が出ていった。解約したり、光熱費の精算をしたりするのが面倒だったのだろう。  彼が出ていく背中を見送って、スマホの連絡先を消そうとしたが、できなかった。  なんの気なしに冷蔵庫を開けると、みかんゼリーが三つ入っていた。  三つ子がそろって私に笑いかけていた。  一つを取り出し、十一年使っていた二人用の小さいダイニングテーブルで食べた。  こんな悲惨なときでも変わらずおいしい。   もう向かい側に座る人がいないので、代わりに食べ終わったゼリーの容器を置いてみた。  私のほうに容器の前側を向けた。  純真無垢なゼリーの笑顔が私を見つめた。 「タケルがね……もう私を要らなくなっちゃったの。もう……私には価値がないの……」  涙が溢れてきた。  私はもう、そんなふうに笑えない。たぶん、一生、笑えない。  タケルと一緒にこのゼリーを食べることはもうないし、一緒にスーパーでゼリーを買うこともない。   私はゼリーの笑顔に見守られながら、荷造りを開始した。  寂れた商店街のパン屋の二階。  昭和感漂う、暗い店内。 「咲(さき)ちゃん、コーヒーくれ」  常連のおじいさんは毎日同じ席に座る。毎日同じ時間に来店し、同じクロワッサンを食べ、同じコーヒーを飲む。ずっと囲碁の本を読んでいて、小声でうーんと唸っているから、考えているのだろう。  私が初めてバイトに入った日のお昼を思い出す。  このおじいさんは私にいきなり 「名前は」 とぶっきらぼうに言った。ちょっと怖かった。 「じょ……城之内(じょうのうち)……さ、咲、です」 「あー、名字は覚えられん。シルバーだから。後期高齢者だから」  その言い方がきつかったので、さっそく心が折れそうになった。 「ちょっとー、小田さん。もっと優しくしてあげてよ。小田さんのせいで、何人の子がやめたと思ってるのよ」 「俺のせいか?待遇が悪いからなんじゃないか?」  商店街で働く人々は強い。  私の雇用主である北見さんご夫婦は、旦那さんが一階でパンを作り、奥さんが二階でカフェを営業している。  この商店街ににぎわいはなく、半分ほどがシャッターを降ろしている。  小田さんというおじいさんはパン屋の斜め向かいで陶器を売っている。  タケルと別れ、マンションの家賃が払えなくなった私は、この際だから、憧れの地方都市で暮らしてみようと思いついた。  東京生まれ、東京育ちの私が抱く地方の暮らし。田舎で農業、とまではさすがに思わなかったが、人の温かみを感じられる暮らしをしてみたい、と思った。隣の部屋の人の名前や家族構成を知っていたり、挨拶をしたついでにちょっと立ち話をしたり。家庭菜園で採れた野菜をもらったり。  そう思い、とある地方都市にやってきて、アパートの家賃を調べたり、ハローワークに行ってみたりした。  そして、その都市は私が思うより、人が冷たかった。なのに交通が不便だった。良いところ、なし。  これじゃない。  私は思い切って、二駅ほど田舎に移動してみた。  駅のロータリーを見て、数歩後退りした。  わ、私の考え、間違っていただろうか。  タクシーは一台しか待機していない。バスは路線が一つしかない。駅前に人は少ない。以前はコンビニやチェーンのカフェだったらしい建物は空き家になっていて、借り手が見つからないまま数年が経過しているのがわかる。  おなかすいた……。とりあえずなにか食べて、元気になろう。これ以上マイナスな感情を持ち続けるのは良くない。  私は駅前商店街に入って行った。  予想通りと言っていいのか。シャッター、シャッター、シャッター……。  営業している果物屋の店頭に並んでいるバナナはすでに黒くなり、オレンジはカビが生えていた。  商店街を歩いているのは数人の高齢者のみ。  しばらく歩くと、お蕎麦屋さんがあった。  おなかすいたし、ここでいいか……。  しかし入る勇気が出ない。店内の様子が全く見えない作りになっているからだ。  ど、どうしよう。  悩みながら少し先を見ると、パンののぼりが一本立っていた。  ああ、パンにしよう。パンならはずれの味でもなんとかなる。買って、駅に戻って、ベンチで食べよう。  私は田舎のパン屋になんの期待も抱かず、おなかさえ満たされればとりあえず良しとしよう、くらいの気持ちでパン屋に入った。  ああ、やっぱり。  店内は正直言ってダサい。おしゃれとはほど遠く、センスもない。籐のカゴにキッチンペーパーを敷いて、その上にふっくらおいしそうなパンが並んでいるだけで、充分すてきなパン屋なのに、この『THE・田舎』と言わんばかりのプラスティックのトレーに並んだ、なんのデザイン性もない、普通のパン。  私はクロワッサンとクリームパンとバターロールをトレーに載せて、レジの横に置いた。 「お持ち帰りですか?」  レジの女性に訊かれて、は?という顔をすると 「二階がイートインスペースになっているので、こちらで飲み物を選んでいただけます」 と言われた。  食べるところがあるならありがたい。  私はコーヒーのLサイズを注文し、二階に上がった。  二階はタイムスリップしたと言われても信じるような、昭和の高度成長期の終わり頃のまま、時間が止まっていた。  大きな向日葵の柄の壁紙。スエード生地の椅子。今は時代に合わせて禁煙だが、昔は喫煙が当たり前だったからか、タバコで焦げた跡が残るテーブル。花の形をした照明が沢山ぶら下がっている。  疲れた……。文句を言わず、座って食べよう。  店内には数人のお客さんしかいない。私は窓側の席に座り、マグカップに入ったコーヒーをひと口啜った。  あれ?ものすごくおいしい。相当疲れてたんだな、私。  クロワッサンをひと口大にちぎって、口にほうりこむ。  ん?おいしい。じゅわっときた。良かった、はずれのパンじゃなくて。  そんな感じで、最初はぼーっとしていた。  しかし食べれば食べるほど、私は衝撃を受けていった。  クリームパンの中のカスタードをひと口舐めて、私は思わず立ち上がった。  こんな田舎で、こんなに温かみのあるパンに出会えるなんて。  私より少し年上らしい女性がグラスに入れた水を運んできてくれた。 「あのっ!」  私が襲いかかりそうな勢いだったのか、店員さんは驚いて、トレーの上に水を少しこぼした。 「ここでバイトってできませんか?」  店員さんはこぼれた水と私を交互に見ながら、困惑していた。  パン屋の裏にある、細長い二階建ての家。  商店街とは反対側の、国道の脇にある、二階の一部屋。  私はパン屋の北見御夫婦にいきさつを説明した。始まりは失恋で……とは言わなかったが。そして、御夫婦の住まいの二階に住まわせていただくことができた。  御夫婦との同居は最初は緊張したが、一回り年上の御夫婦は頼もしくて、少し年の離れた兄姉みたいで、私はいつのまにか安心して暮らしていた。  毎週水曜日。商店街が一斉に休むその日。  私は一日のほとんどを、その部屋で窓の外を見て過ごす。  最低限の家具のほかに、小さい冷蔵庫を買ってきて、部屋の隅に置いた。  冷蔵庫を開けるとき、今でも笑顔のゼリーがある気がしてしまう。そして、もうそれがないことを確認して、そのたびに、タケルが私を好きではなくなったことを思い知る。  タケル。今、なにしてる?仕事してる?もう私を思い出したりしない?彼女、できちゃった?タケル。せめて一日の終わりに私を思い出したりしてくれない?  空になって、きれいに洗ったみかんゼリーの紙の容器を、私はベッドサイドとしても使っている、三段の小引き出しの上に飾っている。  みかんゼリーの笑顔を見るたびに、タケルを思い出す。  本当はこの笑顔がタケルに似ているから、みかんゼリーが好きだった。もちろん味も好きだったけれど。  こうして毎週水曜日には失恋を引きずり、どん底まで落ちる。そして木曜日からは一目惚れしたパンのにおいに包まれて、売れ残ったパンを奥さんとコーヒーを飲みながら食べ、楽しく仕事をして、タケルを忘れる。  その繰り返し……。  その繰り返しをしている、と思い込むようにしている。  本当は二階にお客さんが上がってくるたびに、タケルが迎えに来てくれたんじゃないか、と期待する。でもたいてい常連のお客さんで、私はニコッと笑いながら、心の中でとてもがっかりする。  東京の部屋を引き払うとき、ここの住所と、お店の名前をタケルに連絡した。  スマホのメッセージアプリは既読になったまま、返事は来なかった。 「咲ちゃん、入っていい?」  ある水曜日の昼間、窓のサンにもたれて、私は街を眺めていた。 「どうぞ」  奥さんがお茶とドーナツをトレーに載せて、入ってきた。 「一緒にお茶しよ」  奥さんは美人な顔をほころばせて、言った。 「呼んでいただいて良かったんですよ」 「いいの、いいの。女子会だから」  奥さんはウキウキして『女子会』と言った。そのさりげない優しさに支えられて、いつのまにか三ヶ月が過ぎた。 「このドーナツ、旦那が作ったの。商品にするかどうか迷ってるんだって。だから試食して」 「えっ、そんな責任重大なこと……」 「お客さんのつもりで食べてくれればいいの」  奥さんは先に一つ手に取り、パクっと大口を開けて食べた。口の横に砂糖がついた美人はクスッと笑えるくらいかわいい。  私もひと口いただいた。 「あー……グラニュー糖と粉砂糖、両方を食べ比べたいです。この生地にはどちらのほうが合うか」 「そうだよね。咲ちゃん、良いこと言う!」  そんなことくらいで褒めてもらえるなんて。  私は自分にまたなにかの『価値』ができたような気がして、少しホッとする。そして数秒後には、満たされないなにかに気づかされる。  そう、タケルがいない。タケルの心が私に向いていない。  ほかのどんなことも、タケルの代わりにはならない。その虚しさに無理矢理気づかされて、私の心臓は病気でもないのに痛くてたまらなくなる。 「あれ?なにこれ」  奥さんが小引き出しの上のゼリーの空を手に取った。 「小物入れに使ってるの?」 「あ……いえ……」  なんて言えばいいんだろう。 タケルと一緒に過ごした長い長い時間。二十九歳から四十歳までの、私の心のほとんどを占めていた人。いつもそばにあった笑顔のゼリー。暑い夏の黒く汚い海も、寒い冬の朝の布団の中のぬくもりも。いつもタケルはそばにいて、少しずつ私から離れていった。 「『国産みかんゼリー』だって」  奥さんが商品名を読んだ。  え?国産?  私が驚いて覗き込むと、奥さんは顔に疑問符を浮かべたまま、私に容器を渡した。  私は改めて、みかんゼリーの容器を確認した。  本当だ。『国産』て書いてある。どうして今まで気づかなかったのだろう。  にっこり笑っているみかんの絵が書いてある、愛知県の、ある会社が作ったゼリー。  国産みかんゼリー。 「咲ちゃん?」  奥さんが心配そうに私の肩に触れた。 「……私……失恋したんです」  その声は自分でも驚くくらい、か細くて、力がなくて、耳をすませて音を拾おうとしなければ、聴き取れなかっただろう。  しかし奥さんは、そっと私の頭を撫でてくれた。 「……長かったんです。十一年、一緒に暮らしていたんです。私はだんだん優しくなくなった彼が悪いって……私をずさんに扱った彼が悪いって……そう思ってきたけど、違うのかもしれません」  奥さんは時々、うん、うん、と頷いて聴いてくれた。 「私、このゼリーの正式名称、知らなかったんです。十一年、沢山食べてきたのに。そんなふうに、私が気づかなかっただけで、私も彼を大切にする気持ちを失くしていたかもしれないのに、彼だけが悪いって思い込んでいたのかもしれません」  自分がなにを言ってるのか、よくわからなかった。ただ一つだけわかったこと、私だけが被害者だと思い込んでいたこと。思い込んでしまって、もうほかは見えなくなっていた。 「陶器屋の小田さん、毎日毎日、飽きもせず、クロワッサンばっかり食べてるなあ、って思ったこと、ない?」  奥さんは私の背中を優しくさすりながら言った。 「あれね、小田さんの奥さんが好きだったパンなの」 「小田さん、奥さんいたんですか」  その事実に驚きだ。あの、ぶっきらぼうで、いちいちキツい小田さん。人は年を取ると丸くなるんじゃないの?後期高齢者であのキツさなら、若い頃はどれだけ怖い人だったのか。あの人の妻は相当強くなければできないだろう。 「小田さん、いつも同じテーブルに座るでしょ。あそこはね、小田さんと奥さんが店番の合間に一緒にランチをしていた席なの」 「……」 「奥さん、若いうちに亡くなってね……。癌だったの。小田さんと奥さん、お見合い結婚だったそうなんだけど、写真を見て、小田さんが一目惚れしたんだって。私は姑から聞いただけなんだけどね」  奥さんは私のことは根掘り葉掘り訊かず、小田さんの話を続けた。 「小田さんはもう奥さんがかわいくてかわいくて、大事にしてたんだって。でも奥さんが癌になって、わかったときには手遅れで、子供も授かれなかった。奥さんが亡くなってしばらくして、小田さんは毎日うちに来るようになったんだって。小田さんは今でも毎日あのテーブルで奥さんと二人だけの時間を過ごしてるのね、きっと」  私は囲碁の本を見ながら唸っている小田さんを思い出した。クロワッサンを載せたトレーは、いつも向かい側の席の前に押しやられている。私はその様子を見て、囲碁の本を手前に置きたいからだと思い込んでいた。でも本当は、奥さんが座っていた椅子の前にクロワッサンを置いていたのかもしれない。  すっかり田舎街に慣れた頃。商店街の小さなお祭りが近づいた。  私はお店の前にポスターを貼った。 「咲ちゃん、隣にうちのポスターも貼ってくれる?」 「はーい」  奥さんから手渡されたお手製のポスター。貼りながら眺めると、『国産果汁ゼリー』の文字。『みかん、もも、りんご』そしてつぶらな瞳がかわいい笑顔。  あ……。 「あの愛知県の会社。試しに電話してみたら、このお祭りのために、うちに卸してくれるって。電話してみるもんだわ」  奥さんはドヤ顔で胸を張った。 「……ありがとう、ございます」  この辺りのスーパーでは見つけることができなかった。 「旦那がね、咲ちゃんを喜ばせたいって。咲ちゃんが来てから売り上げがいいから。旦那のアイディアよ。内緒だけど」  奥でパンを成型している旦那さんを見ると、一瞬目が合った。旦那さんがプイッと顔を背けたのと同時に奥さんが吹き出した。 「昭和か」  タケル。  私の人生はまだまだ続くかもしれないけれど、タケルと一緒に過ごせた十一年は私の絶頂期だった。  これから先、もし誰かを好きになっても、きっと、タケルじゃない、タケルだったら、とその誰かとタケルを比べてしまうだろう。そしてすぐ破局するだろう。  私にはタケルがすべての源だった。仕事のモチベーション、体を労ること、食べること、人間関係で負けないこと……。なにもかも、タケルがいてくれたから、できていた。それに気づくことができなかった私は、タケルを失って、もう這い上がることはできない。  でもそれでいい。低空飛行でもいい。  どうか。  どうかタケルが幸せでありますように。でもタケルの心の片隅に絶対誰にも侵されない場所があって、その場所がタケルと私の十一年間で埋め尽くされていますように。  それだけが叶えられたら、私は幸せだ。  お祭り当日。  その日は朝から暑くて、かき氷には長蛇の列ができていた。  ゼリーはほどほどに売れた。  私は三品とも食べてみたが、やはりみかん味が一番おいしいと思った。  みかんはオレンジ色、りんごは赤、ももはピンクの容器にそれぞれ入っていたが、笑顔はどれも同じ。  時が経ってみると、容器の笑顔とタケルはそれほど似ていなかった。 「咲ちゃん、どれがおすすめだ」  小田さんが杖をつきながら近づいてきた。 「みかんです」 「今日は二階でパン食えねえか」  お祭りでお客さんが多く、普段のようにゆっくり長居はできない。 「……かわいいゼリーだな……仏壇に供えるか」  小田さんはみかんゼリーを一つ、購入していった。小田さんの口角が少し上がっていた。  大好きな奥さんにあげるのだと思うと、私まで嬉しかった。  午後二時過ぎ。 「咲ちゃん、遅くなってごめんねー。休憩に入って」  奥さんが首からタオルを下げて外に出てきた。 「二階のカフェ、どうですか?」 「涼を取りに入ったお客さんが出ないから、回転悪いよ。咲ちゃんのごはん、旦那が作ってくれてあるから、調理場でもらって」 「はい。いただきます」  奥さんとゼリー売り場を交代して店内に入ると、ポケットのスマホが一度だけ震えた。  ん?メッセージ?  私はスマホを取り出して画面を確認した。そこには消せなかった人の名前があった。  慌てて外に飛び出した。商店街の入口のほう。目を凝らす。  いた。  人混みの中でもすぐに見つけられた。 「笑顔のゼリー、二ついただきますっ」  奥さんの返事も待ちきれず、みかんゼリーを両手にがしっとつかんで、私は走り出した。
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