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第101話 霧の中を駆け抜けろ
霧は進むほどにいっそう濃くなっていく。最初はうっすらとしたものだったが、今や10メートル先が見通せるか怪しいほど視界は劣悪だ。
そんな中でも車を走らせる事ができるのは幸いで、車道に遮蔽物はなかった。
「マジ走りづれぇ。こんなんじゃスピード出せねんだわ」
凜花がぼやきながらハンドルを回した。片側二車線の大きな通りを、道なりに右へ左へ。その間も誰かと出くわす事もなく、驚いたカラスが羽ばたくくらいだった。
「んぉ? 水たまりかよ」またもや凜花がぼやく。ここ最近、雨なんて降っただろうかと思い巡らすと、凜花が悲鳴をあげた。「待ってスゲェ長いんだけど!」
その言葉に偽りはない。見える範囲の全ては水で満ちており、先へ行くほど深いように思えた。
「ヤバいな、一旦戻ろう」
「いったい何だってんだよ……ったく!」
シフトレバーを切り替えた凜花はすみやかにバックした。車外からはジャボジャボという音が聞こえるとともに、重たそうに走りつつも、どうにか水没だけは免れた。
「うはぁ……何だよこれ」
運転席から降りた凜花が、車体を眺めつつ言った。タイヤは接地面だけでなく、側面やホイールまでもが濡れそぼっていた。
「これは水たまりなんてレベルじゃないな。2人は待っててくれ、様子を見てくる」
「待てよワタル。1人じゃ危ねぇだろが」
「深煎りはしない。すぐ戻る」
オレはひとっ走り水辺まで駆けた。そこは変わらず冠水していた。道路から廃ビルにいたるまで全てが水浸しだった。風に合わせて波立つ水面には、木の葉やセロファンのゴミが浮いていた。
それからしばらくの間、水際に沿って歩いてみた。と言ってもオフィス街なので、フェンスを蹴倒したり塀によじ登る必要があった。終いには廃ビルの3階窓に飛びついては、その先の様子を眺めた。
「あまり遠くまで見えないが、似たような光景が続いてそうだな。とりあえずはこの辺で」
オレは飛び降りるなり、来た道を戻っていった。車の中では凜花と衣織が待っていた。
「様子はどうだった?」凜花の問いに首を振り、オレは助手席に座った。
「ダメだな。恐らく車で突破はできない」
「いったいどういう事だよ……。墨田川でも氾濫したか? それともいきなり川ができちまったのかよ」
「恐らくは違う。水に浮かんだ木の葉が、その場に留まっていた。だから川のような流れはない。湖に近いだろう」
「湖ったって、こんなとこに? オフィス街のど真ん中で?」
凜花の訝しむ視線をよそに、オレは何か繋がるものがあった。
関元が言うには、千夜田から人が来た事はないらしい。そして異様とも思える冠水。それらを組み合わせると、1つの仮説が思い浮かんだ。
「生存者たちは、あの水の向こうにいるんじゃないか」
「どうしてそうなるんだよ?」
「あの水は外部とのつながりを遮断するためだと思う。他所から入れず、内側からはでられず。だから天然のものというより、意図的に作り出されたお掘りのようなものだ」
「いや、確かに理屈が通りそうな気はするがよ」
「こんな芸当、おそらくアニマを使ったに違いない」
オレはスマホを取り出すなり、マップを開いた。するとどうだ。付近はあらかた水没していることが分かった。わずかに残された陸地は秋葉腹駅の周辺だけで、孤島のような形を残していた。
「みてみろ。この辺りだけ水没を免れてるぞ」
「ほんとだ。それと何か、千夜田のとこだけ赤いアミで覆われてますね」
「セカンダリーゾーンの範囲だ。真宿と理屈は同じで、広大な範囲が敵の支配下にあるという事だ」
「大きいってことは、それだけ強い……?」
「少なくとも弱くはないな。アニマの量が多いんだから」
オレが言うと、2人とも息を飲んだ。そして無言のままでスマホ画面を見続けるのだが、ふと、衣織が声をあげた。
「わ、ワタルさん! 地図が!」
驚くのも当然だった。周辺を映し出した地図は、いきなり表示にノイズが走るようになり、ブラックアウトした。
それから地図がリロードされたのだが、現れたのはエラー表示だった。「このエリアの情報はありません」と、白々しい音声まで聞こえてきた。
「敵に感づかれたな。抜け目のないヤツ」
「そういえば以前、結菜さんがどこに居るか調べてませんでした?」
「そうだ。あの時も似たようなもので、すぐに非表示にされてしまった。だから今も正確な居場所は分からないが……」
オレはチラリと左の方を見た。今は霧によって隠されているが、そちらには山之手線があったはずだ。
「探す手間が省けた。結菜はきっと、あの狭い孤島の中にいるはずだ」
「でもよ、どうやってあそこまで行くんだよ。アヒルボートでも探すか?」
「いや、観光地ならともかく、オフィス街に無理やり作った人口湖だ。そんな娯楽品があるとは思えない」
「じゃあどうすんだよ」
「先達のレガシーを拝借しよう」
「れがしぃ……?」
間の向けた面を見せる凜花に、オレは行先を指定した。そうして車は発進。ガレキのない路地を探しつつ、行っては戻ることの繰り返し。その苦労の果てに、ようやく辿り着いた。
「これって、高架線か?」凜花の言葉に「山之手線だ」とオレが付け加えた。
「ワタル。お前のいうレガシーってのは結局何だったんだよ」
「眼の前にあるだろ。高架線なら、湖を突破できる可能性が高い。少なくとも水没しながら走るより真っ当だろ」
「いや、そりゃそうだがよ……。これマジでいけんのか?」
パワーウインドウから顔を出した凜花が不満げに言った。気持ちはわかる。かつては巨大な車両と数千にも及ぶ人間の重量にも耐えてみせた高架線だが、それも過去の事。
コンクリートの支柱には致命的とも思えるヒビが深く刻まれている。風よけらしい鉄板もところどころでねじ曲がるので、走行は容易でない。さらに言えば陸地の方で、線路が土台ごと千切れて、横倒しになっている。それが良くない未来を無言で語ってくれた。「お前もこうなりたいのか」と。
「やっぱさぁ、アヒルボートでも探そうぜ。そっちのほうが安全だろ」凜花がかぶりを振った。
「それを言うならスワンボートじゃないのか? アヒルの方が一般的なのか?」
「うるせっ。大体通じたから良いだろが!」
「オレは反対だな。孤島には車を持ち込みたい。それは足になるし、場合によっては敵の攻撃を防ぐ盾にもなる。ここで手放すのは惜しい」
「そりゃ分かるけどよ。状況的に無理じゃね?」
その時だ。辺りに凄まじい振動が押し寄せて、車のサスペンションを激しく軋ませた。
「なんだ、地震か? こりゃでけぇぞ……!」
「凜花さん、あそこ!」
「今度は何だ!?」
後部座席から衣織が前を指した。そちらは3〜4階建ての廃ビルが並ぶのだが、振動に合わせてグニャリと歪んだ。耐久度が限界を迎えてしまい、真ん中でへし折れた。
砕けたビルの片割れは空中分解しつつ、道のあちこちに降り注いだ。ガレキは巨大だ。直撃すれば車ごとペシャンコだろう。しかも崩壊したのは一棟だけでなく、あちこちで矢継ぎ早に発生した。辺りには砂埃が吹き荒れ、ただでさえ視界不良だったのに悪化してしまった。
「おい、このままじゃヤバい! ここらへんのビルもブッ壊れるぞ!」
「こうなったらイチかバチかだな!」
オレは傍らの高架線に手を伸ばし、セカンダリーゾーンを展開した。競合的ゾーンなのでアニマの消費が激しい。しかし幸いにも微かな目眩で済んだ。
「凜花、高架線につながるスロープを作った! それで線路をひた走れ!」
「ちくしょう! こうなりゃヤケだって、クソがーーッ!」
凜花がアクセルを踏みつけて、前方のスロープを駆け上っていった。オレ達が居た場所は、次の瞬間にはガレキの雨が降り注いだ。
「うおっ、間一髪だったな! 1秒でも遅れたら埋もれてたわ」
「どうだ凜花、行けそうか?」
「走りにくいけど何とか……」
当然だが、線路は車が走る事を想定していない。枕木が、あるいはレールがタイヤと反発して、車体は激しく揺れた。
だが進めないこともないようだ。このままいけば無事に渡りきれるはずと、そう思っていた。
「そろそろ、湖の真ん中くらいまで行ったかな。そうだと良いな」
「珍しく凜花が弱気だ」
「いや怖いんだってマジで! 走りきれる保証なんてねぇし、霧で全ッ然見えねぇんだから。いつトラブルが起きるか分かんねぇ――」
そこで、ガタンと車両が揺れた。続けて浮遊感がジワリ、ジワリと押し寄せてくる。何事だと思って周囲を見ても、特別な変化は見られなかった。
「あんだよ今の。穴にでも落ちたか?」
「あの……凜花さん。もしかしてですけど、傾いてません?」
「ん……どういうこったよ衣織ちゃん?」
「いやだって、ほら……」
衣織が窓ガラス越しに右の方を指した。そこには30度ほど斜めになって立つ電柱が見えた。それはユルユルと動いており、角度を徐々に増していく。
自発的に電柱が動いた、とは考えなかった。それから結論に思い至ると、オレたちはそろって青ざめた。
「高架線の支柱が倒れかけてるんだ! 凜花、急いで脱出しろ!」
「もうやってるよ! でも馬力が足りねぇ……!」
狂ったようなエンジン音、そしてタイヤの絶叫が鳴り響いた。そうまでしても先に進めない。
オレたちは今、巨大なシーソーの上に居るようなものだ。高架線が傾くとともに重力の向きが変わった。全身が座席の方へと押し付けられるので、息も苦しくなっていった。
この末路など考えるまでもなかった。関元の車ごと湖にダイブだ。水深にもよるが、落ちたらまず助からない。
「うおおお! なんとかしろワタルーー!」
「任せろ、とりあえず高架線を元に戻そう……ガハッ」
「おいどうした、大丈夫か!?」
「相手がデカすぎるし、そもそもイメージができないから、アニマの使いようがない……。これは無理だ」
「チクショウ、どうしろってんだァーー!」
そこでタイヤの音が消えた。そして重力は様相を変えて、エレベーターにも似た浮遊感をもたらした。その傾向はみるみるうちに強くなり、内臓が浮かぶ錯覚を覚えた。
「うわぁーー死んだ! これ絶対死ぬやつだーー!」
「いやぁぁ! こんな終わり方なんてあんまりだよーーッ!」
2人の絶叫が響き渡る。オレはそこで、何か閃くものを感じた。爆発、炎、射出。それらのイメージが矢継ぎ早に駆け抜けていく。これしかない。オレは車の後方に向けて意識を集中させた。
「羽ばたけ、皆の夢を乗せて!」
「こんな時に何言ってんだ――って、うわぁ!?」
重力はさらに強まった。落下したのではない、いきなり車ごと前進したからだ。
車のマフラーから爆発的な炎を吹き出すことで、重力に対抗した。それは想定以上の結果をもたらした。重力に対抗するどころか、凄まじいまでの推進力を得て、力強く前進した。いや飛び立った。
垂直ともいえる角度まで傾いた高架線は、ちょっとしたジャンプ台になった。そこを勢いよく疾駆したことで、車は高く高く舞うことになった。
「うわぁ〜〜今どうなってんだコレ!」
「ガソリンをジェット燃料に変換して燃やしてる。マフラーから火を吐かせてみたら上手く飛べたようだ……」
しかし状況はよくない。ジャンプ台の角度が厳しいため、前方よりも空に向かって飛んでいた。燃料を燃やせば燃やすほど地上から離れてしまう。もちろん火を消したなら落下するだけ。
と説明すると、車内は阿鼻叫喚の騒ぎになってしまった。
「さっきより状況悪くなってんじゃねぇか! どうすんだよぉ!」
「待て待て、車体の頭にもう一つマフラーをつけてみよう。そこにも火をつけたら、前に進む力もついて――」
そこでまた、ボスんという嫌な音を聞いた。するとリアガラスに爆炎が広がるのを見た。その熱はまたたくまに後部座席から伝い、車内の温度を跳ね上げた。
「今度はなんだチクショウが!」
「あぁ、マフラーが壊れたか溶けたな。もともと燃やす場所でもないし」
「冷静かお前は! 大ピンチじゃねぇか!」
「安心しろ。ジェット燃料はコストが高くてな。ガス欠だ。もう燃やせるものがない」
「安心要素ゼロだろ、バッカ野郎ーーッ!」
再び遅い来る浮遊感。外は深い霧で見えないが、かなりの高度から落下している事は予想できた。
「となると、だ。車にゾーン展開をして……」
オレはすかさず車が浮遊するイメージを浮かべた。とたんにチリチリとした頭痛が駆け抜けてゆく。重力加速度は強烈で、生半可な相手ではなかった。
「だからといって、負けたらそこでお終いだ……!」
アニマがみるみるうちに溶けていくのがわかる。それと同時に、落下速度が段階的にさがり、やがて圧力を感じなくなった。
「アタシら、今どうなってんの……怖っ」
「なんだか、ゆる〜〜く落ちてってません? まるで風船がフンワリと……ギャン!?」
背中の方から衝撃が走った。それからはゆっくり、ゆっくりと世界が裏返ってゆく。次の衝撃を感じたときには、オレたちは揃って天井の方へと引っ張られていた。
「おい、みんな。無事か?」
「心が無事じゃないです……」
「車がひっくり返ったようだな。だが着地場所は陸地だ。シートベルトを外して車から出よう」
「なんでそんなにハキハキしてんですか……」
オレたちは、開け広げた窓から這うようにして脱出した。そうして見えた光景は違う。相変わらず霧が立ち込めていて、狭い範囲しか見えないが、明らかに別の場所に出ていた。
「あそこに倒れかけの高架線が見えるな。どうやら湖を渡ったらしいぞ」
「いや、そこはもう、どうでも良いわ。生きてるだけ奇跡だよマジで」
「ワタルさん。帰りはボートにしましょうね。アヒルでもスワンでも、この際手こぎボートでも構いませんから」
仲間たちはすでに精神的に満身創痍だった。そのため、ここが敵地だと承知の上で、長々とした休息を強いられるのだった。
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