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第93話 疑惑の女
タオルで頬をぬぐう氷川は、愛想よくあいさつした。柔和で、年齢以上の落ち着きすら感じさせた。オレはパーテーションの入口に差し掛かると、そこで足を止めた。
「おはよう。関元を見なかったか?」
少し違和感があるとすれば、氷川と視線が重ならないこと。どうやらオレの喉元あたりを見ているらしい。あまり疑いたくはないが不測の事態に備えて、少しだけ氷川と距離を空けておく。
「大人の男性の方ですよね? 彼なら仮拠点に行くといって、表に出ましたよ」
「仮拠点? なぜそんなところに」
「残した食料を取りに行くといってました。近いからすぐ戻ると」
「確かに遠くはない。だが、無断で行くとは不用心だな」
「あっ、食料と言えば、昨晩はごちそうさまでした!」
氷川が深々と頭をさげた。昨日は凜花が缶詰を晩飯として差し出した。極々少量だが無いよりはマシだった。
「気にしなくて良い。こういう時は助け合いだ」
「いえいえ本当に助かりました。ここ2、3日は何も食べてなかったので」
「3日近くも……?」
それにしては活動的すぎやしないか。数日ものあいだ絶食を強いられた挙げ句、ありついた食事もコーンの缶詰が少しだけだ。エネルギーなど足りていないはずが、なぜか今も平然としている。やたら血色も良いので、充分に栄養が足りているようにすら見えた。
これは何か別の「補給方法」でもない限りは説明がつかない。たとえば、魂を吸う。そんな言葉が脳裏をよぎっては消えた。
「それは大変だったな。食えないのは辛かったろう」口ではそう言いつつも、相手との距離を目算した。およそ3歩。会話するには不自然なほど離れているが、戦うとなった場合には都合の良い間合いだった。
「手持ちの食料は尽きたし、外に出たら殺人鬼に追われるしで、あの時はほとほと参ってました」
「関元が食料を持って帰れば、好きなだけ食ってくれ。まぁ、むこうが許可したらの話だが」
氷川に不審な動きはない。ただやはり、視線だけは思うように重ならなかった。
「助かります。といっても、それほどお腹は減ってないんですけど。不思議ですよね」
「そうか、不思議だな」
やはり何かある、普通の女じゃない。会話を続けるほどに不信感は膨らんでいった。オレは自分の視線が強まっていくのを感じた。ぼんやりと相手の姿全体を見るようで、指先1つの動きにさえ注意を払った。
すると氷川は、申し訳無さそうに顔を伏せた。そしてなぜか、いきなり手ぐしで髪を整えはじめた。
「す、すみません。見苦しい姿を……。この歳になると、寝起きも酷いものでして。せめて髪くらいは……」なぜ唐突に身だしなみの話をするのか。オレは肩透かしを食らった気分になった。
「言うほど酷いか? 寝癖もないし、普通だと思う」
「お気遣いありがとうございます。でもやはり見れたものじゃないと思いますよ。こんなオババですから」
「卑下する見た目でもないだろ。美人の部類じゃないか?」オレが言うと氷川が飛び跳ねた。そして返答も妙に早口だった。
「いやですよそんなお世辞なんて。言われるだけ嬉しいですけど、こんなオバちゃんをからかわないでください。こちとらもう五十路に片足突っ込んでるんですから。そういう話はほら、上で寝てるお嬢さんたちにしてあげてください。あの子達こそ美人美少女って感じじゃないですか。いやほんと、若いって羨ましいですね〜〜」
そこまで言い切ると、氷川は「私の肌なんてもうお婆ちゃんだしねぇ〜〜」と、誰に言うでもなく、自分の手の甲を見た。すると、彼女の緩んだ瞳が徐々に大きくなる。
「えっ……?」何か違和感を覚えたのか、氷川は硬直した。そして、手の甲から始まり、腕に頬と、自分の身体をなぞり始める。やはり疑問符がよぎるらしい。終いには自分の胸を両手で掴み、掌の中で揺らした。
いったい何の儀式だ。オレは意図がさっぱり読めずにいた。
「どうかしたか?」
「あの、いや、えっ……? どこかに鏡は……」
「鏡なら向こうにドレッサーの展示品があるぞ」
「す、すみません。ちょっと失礼……!」
氷川は、オレを大回りになって避けると、遠くへ走り去った。そして足音が鳴り止んだかと思うと、続けて絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
「どうした?」
オレは首をかしげながら駆けつけた。すると鏡の前で腰を抜かす氷川が、声をしぼりだした。
「わ、わた、わ、わ……」
まともに喋れていない。オレは傍によるなり膝をつき、「落ち着け」といった。すると、僅かばかりだが、氷川の口調がマシになった。
「わ、若い! 私、若くなってます! なんなら、そこそこ美人に!」
「ハァ? どういう事だ」
「こ、こ、こんなに若くないです! 20歳は若返ったみたいな!」
意味がわからないオレは、更に問いかけようとした。だがそこへ、今度は別の悲鳴が聞こえた。それは誰もいないはずの西側の方からだ。
「だ、誰かーー!」
「今の声は関元か?」
オレは氷川をいったん置いて、そちらへ急行した。すると関元は雑貨屋そばでうずくまっていた。呼吸は荒く、肩を激しく上下させている。
「どうした、何事だ。とりあえず怪我はないか?」
「オレは平気だ。急いで走ったから、息が……」
「ともかく落ち着け。何があったか説明しろ」
オレがなだめながら問いただす最中に、エスカレーターから足音が聞こえた。凜花が3階から降りてきたのだ。
「おい、朝っぱらから騒がしいぞ。つうか腹へんね?」
つい天井をあおぎみてしまった。無駄にゴチャゴチャしてきた。オレは大きく溜息をついては、仕切り直しする事を決めた。
それからは全員をダイニングに集めた。そこには衣織と焔走も顔を連ねており、氷川、関元の両名も落ち着きを取り戻していた。
「ええと、どうしたら良いもんか……。とりあえず氷川から聞いてみるか?」
オレが問うと、対面に座る氷川は肩をびくつかせた。喋り口調もしどろもどろだ。
「あの、はい、その、すいません。何だか大事にしてしまって、その、はい」
「別にとがめようってんじゃない。何をあそこまで驚いたのかを教えてくれ」
氷川を観察するに、不審な様子も、害意も感じられない。心から動揺しているように見えた。
「若返ってました。20歳くらい。意味がわかりません」
「昨日から何も変わってないだろ
長い黒髪は後ろ縛り。痩せ気味な体つき。薄汚れたウインドブレーカーにズボン。昨日との変化を見つけるほうが難しいと思った。
「じゃあ、ここに来るより前に若返ったってことですね。なぜでしょう……」
「自覚がないのか? 自分の事だろう」
「ここしばらく、1人きりで廃屋に隠れてましたから。鏡なんてないし、どこ行って夜中みたいに真っ暗だしで、自分の容姿なんて気にもしませんでした」
「それもそうか……」
「つねづね若くなりたい、とは思ってましたが……まさかこんな形で叶うだなんて」
オレは思わずテーブルを叩いて前のめった。すると対面席の氷川は、椅子から転げ落ちそうなほどに驚いた。
「待て、いまのを詳しく!」
「えっ、は? え? なに、なにを!?」
「願望のところだ。なるべく正確に」
「ええと、引きこもりがちだったし、世界はこんな風になっちゃったから、若返って人生をやり直したいなと。あとは、元気に過ごしたいなとも、考えていたような……」
「お前は粉雪みたいなものに触れたか? 光り輝くホタルのような、不思議なものに」
「あぁ、言われてみれば……風が吹き込んだ時にフワリと来ましたね。それが何か?」
少し合点がいった。真宿に降り注いだ光の粒子もアニマだった。それが氷川のもとにもやって来て、そして願望を叶えた。そう考えると一応は辻褄が合う。ゾーンは殺人鬼が広く展開していた。そこでアニマに触れる事によって、荒唐無稽とも言える願いを実現したのだ。
空腹でも健康体である理由もそれか。若返り、そして元気でいられること。願望どおりだと思った。
「なるほどな。ありがとう。何となく察したよ」
「あの、鬼道さん? 私はいったいどうしたら?」
「もう一度くらい若者時代を謳歌したらいい。人生のやり直しだと思って」
「えっ! そんな、どうしましょう。急に言われましても……!」
氷川はシロということか。魂を吸ったのではなく、アニマの恩恵だったと。てっきり関元あたりを手に掛けたのかと疑ってしまった。
子供向け絵本を真に受けた末路がこれか。オレはつい恥ずかしくなって、かゆくもない首をかいた。
「氷川、とりあえず済まなかった」
「ええっ!? 今度は何ですか!」
「まぁ半分くらいはこっちの話だ。さて……」 オレは視線を左隣にずらして言った。「次は関元だ。何を慌てて戻ってきた?」
「あぁ、オレの番か……。ついさきほど地下モールへ行ったんだ。仮拠点で備蓄食料を探そうと思っての事だ」
「その割には手ぶらだな」
「そこで眼にした光景が異様すぎてな。みんなにも見てもらいたいんだが」
「構わないぞ。危険性は?」
「正直わからん。特に身の危険は感じなかったが……」
「だったら分断するより、まとまって動くべきだ」
オレがそう告げると、全員で移動する事になった。氷川や焔走といった非戦闘員まで連れてゆく。
「それにしても、何が起きたのやら……」地下モール入口はデパートのすぐ目の前。大通りを挟んだ向かい側だ。
関元を先頭に階段を降りていく。降りきれば地下モールだ。辺りはガレキや砂埃にまみれており、特に変化らしい変化は見当たらなかった。
「関元。その異変とやらは?」
「もう少し進んだ所だ」
関元がハンドライトで、床だけでなく壁や天井も照らしつつ進んだ。
そうして歩いたのは5分か、多く見積もっても10分くらい過ぎた頃だ。関元が突然立ち止まった。
「見ろ、このありさまを」
関元がライトを向けた。その光景にオレは絶句してしまう。
「なんだこれ……一面びっしりと」
「コケだな。それと背の低い植物も散見される」
これには流石に驚いた。打ち捨てられたコンクリートの地下モールは、少し見ない間に植物の楽園へと変貌していた。オレたちはただ言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。
ようやく動き出したのは、遠くの角で何かが走り去る姿を見た後だった。
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