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第1話 謎の青年との出会い
目の前には、大きく真っ黒な物体。
周囲を覆う夜の闇よりもずっと暗く、禍々しい塊だ。
実物を見たことはないが、おそらく熊よりも大きいだろうと思われた。
「今までこんな大きい奴見たことねーよ……っ! 襲われたこともねーし!」
高槻柊也は、乱れた黒髪を気にする余裕もなく、息を切らせながら思わず吐き捨てる。
どうにか逃げられないかと考えながら、ちらりと窺うように背後に視線を巡らせた。
だが背中には高い壁があって、これ以上後退することはできない。
眼前の塊が、ゆっくりではあるが一歩一歩、無言で距離を詰めてくる。
(高校入学したばっかなのに、早速、絶体絶命じゃねーか……!)
柊也の頬を、冷たい汗が伝う。
闇の塊が大きな手らしきものを振り上げるのが見えた。
(殺られる……っ!)
反射的に目をきつく閉じ、地面に座り込む。今は、真新しい制服のブレザーが汚れることなどどうでもいい。腕で庇うようにして顔を覆うと、着けている青いブレスレットが小さく揺れた。
その時だ。
「──行くよ、緋桜」
柊也の耳に届いたのは、低く、落ち着いた声。
次の瞬間、大きな叫び声が辺りに響き、耳を塞ぎたくなった。
断末魔の叫び。きっとそんな言葉がふさわしい、などと、柊也はどうでもよさそうなことを、頭の片隅で思う。
声は徐々に弱々しくなっていき、最後には何も聞こえなくなった。
(一体どうなった……?)
柊也が恐る恐る瞼を開けると、月を背にした長身の青年が、静かに柊也を見下ろしていた。
街灯に照らされた、柊也よりも少し長めの髪色は明るい茶。
細身のシルエットと、整った顔を作り上げているパーツの一つ一つが印象的で、どこかのファッション雑誌の表紙を飾っていそうにも思われた。
手にあるのは、炎を纏った武器に見える。
青年が炎を払うようにそれを一振りすると、纏っていた炎は瞬時に消え、代わりに刀の姿が現れた。
月光を反射する刀身は、柊也の双眸に、とても美しく神秘的に映る。
「まったく、さっき妖魔を浄化してきたばかりなのに、また出くわすなんて今日はついてるんだか、ついてないんだか。……君、大丈夫?」
青年は呆れたように大きく息を吐いた後、すぐに声音を変え、優しい瞳を柊也に向けた。
「あ、ああ……どうも……。でも今の奴って……」
柊也がすでに消えてしまっていた闇の塊のことをぼんやり口にすると、青年は目を見開いてしゃがみ込む。
「君、やっぱり見えてたんだね。あれは『妖魔』って言うんだ。手っ取り早く言えば、あやかしのこと」
「妖魔……」
「そうだよ、って……ん? 君の腕……」
「腕?」
「うん、ちょっと見せてもらってもいいかな?」
青年は許可を得る前に、さっさと柊也の左腕を持ち上げると、その手首にあるブレスレットをまじまじと見つめた。
「……へえ、綺麗な深い青。『最強の幸運をもたらす』と言われる、聖なる石ラピスラズリだね」
そう言って、目を細める。
「ああ、そういう名前の石なのか……」
柊也は独り言のように呟いた。
両親の形見として小さな頃からずっと身に着けてはいるが、ブレスレットが何でできているかまでは気にしたことがなかったのだ。
ふと青年を見やると、何かを考え込んでいるようだった。
まだ左腕は青年に持たれたままである。
(この状況はどうしたもんかな……。別に危害を加えられてるってわけじゃないんだけど)
無理やり振りほどくのもどうだろう、などと柊也が考えあぐねていると、青年は突然弾かれたように顔を上げた。
「今日誕生日の僕へ、神様から助手のプレゼントだ! ってことで君、うちで働かない!?」
「はあ!?」
咄嗟に柊也の口から出たのは、素っ頓狂な声だけである。
「そう! アルバイト!」
瞳をキラキラと子犬のように輝かせて、両手をがっしり握ってくる青年に、柊也は顔を引きつらせた。
わずかに後ずさりしながら、瞬時に考えを巡らせる。
(いきなりスカウトしてくるとか胡散臭いし、いかにも怪しすぎんだろ。助けてもらったのはありがたいけど、ここは断ってさっさと帰った方がいいよな、うん)
とりあえずお礼だけはきちんと言ってアルバイトは断ろう、と口を開こうとした瞬間、
「きっとまた襲われると思うけど、次は何があっても助けないよ?」
青年に先手を打たれた。
ニコニコと満面の笑みを浮かべながらも、唐突に言い放ってきたのは非情な言葉。
「何でそんなことわかるんだよ」
むっとしながら柊也が問うと、すぐに返事が返ってくる。
「『見える』人間は、奴らからすれば敵であると同時に、とても美味い餌でもあるんだ。だからまた間違いなく襲われるよ、断言する」
「うっ……」
先ほどの妖魔を前に、何もできなかった柊也の胸が深く抉られた。
「それに、僕なら奴らからの身の守り方を教えてあげられる。ただ黙って妖魔に食われるのとうちで働くの、どっちがいい?」
「それってほぼ脅しじゃねーか……」
ちょうどバイトは探してたけどさ、そう自分に言い聞かせながら、柊也は渋々頷くことしかできなかったのである。
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