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☆☆☆
一晩中かかって荷物をまとめ、寝不足にぼうっとしていると、部屋がノックされ、使用人のみゆきが顔を覗かせた。
まだ若いみゆきは、朧のお姉さん的存在であり、相談相手でもあった。
みゆきは、「旦那様が呼んでいる」と告げると、朝食を作るため、さっさと姿を消してしまった。
『旦那様』。
それが、龍ケ崎湊斗を指す言葉だと理解するまでに、少しの時間を要した。
おそらく、昨夜の一件が湊斗の耳に入り、全く寄り付かなかった実家に帰ってきたのだろう。
結婚したにも関わらず、妻を義理の両親と同居させて家にも帰らない湊斗を、無責任だと、朧は心のどこかで責めていた。
重い足取りで、湊斗の寝室へと向かう。
入室の許可を得て、緊張しながら寝室に入ると、神々しいまでの雰囲気をまとった男性──湊斗が昏い表情で朧を迎えた。
そして、開口一番、『離婚が成立した』と告げたのだった。
「そう、ですか。わかりました」
ずいぶん展開が早いな、と思いながら、朧はそれ以上何も言う気はなかった。
夜通し家族会議を行い、朝早くに離婚の手続きをして、正式に離婚が成立したのだと、木訥と湊斗は語った。
ならば、話は終わりだ。
朧は正座したせいでしびれた脚で立ち上がり、深々と頭を下げた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
本当に短かったな、と朧は顔を上げつつ、もう夫ではなくなった湊斗の顔を拝んだ。
敗北感を感じるほどの神がかり的な美しさを失礼にならないほどの数秒だけ見つめたあと、視線を反らす。
龍ケ崎家に生まれたのだから、働かなくても生活には困らないだろうに、湊斗は家に寄り付かなかった。
異能を用いての仕事を、何かしているのだろうと、朧も深くは考えなかったのだが、新婚らしいことは、何ひとつしなかったな、と改めて思う。
そもそも、湊斗には自分が結婚しているという認識が本当にあったのだろうか。
自分の妻となった朧に、関心はあったのだろうか。
部屋の扉に向かって歩き出そうとした朧を、湊斗の感情を含まない、ぶっきらぼうな声が引き留めた。
「お前、心が読めるな」
心臓が飛び跳ねるほど驚いて、朧は振り返った。
朧は、ばくばくとうるさい心臓をなだめながらも、無理やり笑顔を取り繕う。
「何のことでしょう?」
震える声で尋ねると、湊斗はやはり無表情のまま淡々と答える。
「俺の異能、『龍の眼』を甘くみるな。
俺は、他人の記憶を読むことができる。
当然、他人が抱えている、別に知りたくもない秘密だって、知ってしまうことがある」
朧の額を冷や汗が濡らす。
「昨夜、わたしが無能力者だと言ったこと、ご両親から聞いたんですか?」
「聞いた。
自分に異能がないと嘘をついてまで、そこまでして、よっぽど離婚したいんだろうと思ったから、特に両親にも教えなかった」
「で、でも、湊斗さんとわたしは、今初めて会ったのに、昨夜の時点で、どうして嘘をついたのだとわかったんですか?」
湊斗は、面倒臭そうに長くさらさらな黒髪をかき上げると、眠そうな眼で朧を見た。
「龍ケ崎の人間が持つ力を、お前たちの常識の範疇におさめるのは無駄だと思え。
俺の『異能』がひとつだと、誰が言った?」
「……他に異能が……?」
「そうだ。『千里眼』。
遠くのものを視る能力がある」
「千里眼……?
あっ、じゃあ……」
「理解したか?
遠くからでも、この家で起きたことは、把握できる。
両親とお前の間の確執も、全て承知している。
当然、お前の記憶も確認済みだ」
湊斗の言葉に、朧はあんぐりと口を開ける。
湊斗は、何の義理もないのに、富子や定国に朧の異能を隠し、味方をしてくれたということなのだろうか。
「うちの両親、さぞかしうざかっただろう?
悪かったな、迷惑をかけた」
「い、いえ、そんな……」
予想外の湊斗の謝罪に、朧はますますしどろもどろになって焦ったように、ひらひらと両手を振る。
湊斗は表情を変えないまま続けた。
「お前と、俺の異能は似ているな。
知りたくない相手の本音や本心を、嫌でも知ってしまう。
だから、上辺を取り繕う人間に嫌気がさして、人間嫌いになる」
それが、湊斗が無愛想な理由なのか、と納得しながらも、朧は眉をひそめる。
先程から、朧はずっと、湊斗に対してある疑問を持っていた。
確かに、湊斗の言う通り、朧には、他人の心を読む異能がある。
それ故に、両親が野望を叶えるための道具として自分を生み、愛情もなく育てたことにも気づいてしまったし、湊斗の両親が朧を面白く思っていないことも余すことなく知ってしまった。
特に富子と定国の心中に吹き荒れる朧への罵詈雑言は、耐え難いものがあった。
昨夜、自分が無能力者だと虚偽の申告をしたのは、決して突発的な衝動がそうさせたのではなく、この1年で積もりに積もった苦痛から解放されたい一心で、富子たちをどうすれば一番怒らせ、あちらから離婚を言い出すよう仕向けることができるか検討を重ねたうえでの、あの告白だった。
両親も、義理の両親も、誰も朧に愛情を与えてくれない。
両親も、義理の両親も、世継ぎを作るための道具としてしか朧を見ない。
結婚から1年経っても懐妊しない朧に、義理の両親は苛立ちを心の中で募らせていた。
しかし、それも仕方のないことだった。
何しろ、結婚が成立してからも、湊斗が朧に会おうとしなかったのだから。
湊斗は、自分になど興味を持っていないのだろうと、そう思ってきた。
しかし、まだ断定はできない。
まだ会って数十分。
だが、朧には、それだけの時間があれば充分のはずだった。
他人の心の中を覗くには、充分すぎる時間のはずだった。
おかしい、だって──。
──湊斗の心を、朧は読めなかった。
これまでの人生で、心を読めない人と出会ったことはなかったし、例外があるなんて思いもしなかったが、事実、朧には、湊斗の心の中を知ることができなかった。
無愛想で何を考えているかわからない人物──湊斗を、朧は不気味にさえ思っていた。
自分の異能を見抜かれていたことには驚いた。
湊斗が、朧をかばってくれたことにも驚いた。
けれど、それだけだ。
離婚は成立しており、まもなく朧は家を出て行く。
数秒間、部屋を沈黙が支配する。
異能がもたらす共通の苦痛について、もう少し話してみたかったが、名残惜しさを振り払って、朧は再び扉に向き直った。
最後に、くるりと振り返り、再度頭を下げる。
「今まで、ありがとうございました」
ノブに手をかけ、部屋を出ようとした瞬間だった。
《あー、しんどかった。
何も考えないっていうのも、骨が折れるな》
「え?」
湊斗の声に、朧はまたも振り返る。
いや、違う、湊斗の『声』じゃない。
これは、《心の声》だ。
──湊斗の。
呆然と自分をみつめる朧を、不快そうに眺めた湊斗が仏頂面で素っ気なく告げる。
「何だ、話がないのなら、さっさと出て行け」
「あ、はい……。すみません」
聞き間違いだろうか。
朧は狐につままれたような心地になりながらも、部屋を出ようとする。
すると、背中に突然の衝撃があった。
「!?」
振り返ろうとしたが、できない。
背後から、湊斗が朧を抱きしめていたのだ。
《やっと手に入れた。
もう離さない》
湊斗の心の声が、はっきりと朧に聞こえる。
「あ、あのっ」
慌てて朧は身体を離そうとするが、湊斗はぎゅうと朧を抱く手に力を込める。
「用がないなら、とっとと出ていけ」
湊斗の血の通わない無感情な声が頭のすぐ後ろから響いてくる。
「……はい、そう、したいんですが……?」
振り向くこともできず、見動きをすることもできないのに、湊斗は言葉とは裏腹に朧を離さない。
「離して、もらえますか……?」
桃色の着物を着た小柄な朧を抱きすくめながら、ぶっきらぼうな口調の湊斗の声が降ってきた。
「ここを出て行ってどうする。
行くあてなどないだろう」
「は、はい。
……そうですけど」
湊斗の突然の抱擁に、朧は顔は真っ赤に、頭は真っ白になりながら、何とか言葉を声にする。
「使われていない離れがある。
しばらくそこに住め」
《どこへも行かせるわけがないだろう。
離婚は成立したんだ、もう自由の身だ。
両親にも、朧の両親にも、何も文句は言わせない。
お前のことは、俺が必ず護る》
「は、はい!?
今、『朧』って言いませんでした?」
しかし、湊斗はすっと身体を離すと、相変わらずの無表情で朧を見下ろしていた。
聞こえてくる《心の声》と湊斗の表情の落差がすごい。
同じ人間が思っている言葉だとは信じられない。
湊斗は朧を追い越して、扉を開けると、やはり仏頂面で言った。
「荷物を持ってこい、行くぞ」
朧は、呆然としながらも、スーツケースを取りに行き、そそくさと屋敷をあとにしたのだった。
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