離婚した元旦那様、恥ずかしいので心の中でだけ私を溺愛するのはやめてください、全て聞こえています。

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☆☆☆  離れを大掃除するから、とみゆきに言われ、龍ケ崎の敷地にある蔵に身を隠していた朧は、日が沈んでしばらくしてから、離れに帰り、玄関を開けた。  草履を脱いで居間へ向かうと、飛び込んできた光景に、朧は息を呑んだ。  次いで、形にならない悲鳴が喉から無意識に溢れ出す。 「湊斗さん!?湊斗さん!」  居間の畳の上に、湊斗が倒れていた。  腹部から流れ出た血液が、湊斗の灰色の着物を黒く染め、畳にも血が染み込んでいる。  湊斗の腹には、短刀が突き刺さっていた。  思わず駆け寄り、短刀を引き抜こうとした、そのときだった。  空間を引き裂く悲鳴が、背後で上がった。  振り返ると、みゆきが口元を押さえて蒼白になっていた。 「みゆきさん、湊斗さんが……」  頭を恐怖に支配され、思考停止に陥っていた朧が、すがるようにみゆきを呼ぶと、複数の足音が離れに近づいてきた。 「湊斗!  まあ、なんてことなの!」  富子が目を見開いて、玄関先に立ち尽くす。  続いて定国が、理性を失ったような怒鳴り声を上げる。 「どうした、何があった!?  朧さん、何であんたがここにいるんだ、湊斗に何をした!」 「わ、わたしは何も……」  朧が動転したまま言葉を継ごうとすると、みゆきが遮るように叫んだ。 「私、見ました!  朧さんが旦那様を刺しているところを!」 「みゆきさん!?  ち、違います、わたしは何もしていません!  わたしが来たときには、もう……」  思いもよらないみゆきの裏切りに、わけがわからなくなって、朧は言葉を繋げることができない。  朧を突き飛ばすと、定国が怒号を響かせた。 「見苦しい言い訳はよせ!  わしらが離婚させたことを恨んで、湊斗に復讐したんだろう!  全く、東雲は何という娘を寄越したんだ、この疫病神が!  早く医者を、鬼怒川(きぬがわ)先生を呼べ!」  鬼怒川とは、龍ケ崎家の敷地に住むお抱えの医者のことだ。  定国の剣幕に()され、離れの外に出た朧は、手にこびりついた湊斗の血を見て、めまいを覚え、小刻みに震えだした。  湊斗は、大量に出血している。  助かるのだろうか。  もし、湊斗が死んでしまったら──。 「そいつを取り押さえろ!」  定国の命令に従い、制服を着た警備員が、朧の両腕を掴み、拘束する。 「違うんです、わたしじゃありません!  わたしは何もしていません!」 「みゆきが見たと言っているのよ、観念なさい!  この、人殺しが!」  富子が髪を振り乱して涙声で叫ぶと、朧の頬を平手で叩いた。  じんわりと、右の頬に痛みが滲む。  朧は、もう何も考えることができなかった。  今、一体、何が起きている?  何故、湊斗は刺された? ──誰に?  誤解を解かなければいけないと理解してはいるのだが、青白い顔で固く目を閉じる湊斗を見て、抵抗する気力も削られ、朧は膝から崩れ落ちる。  少しして、小柄な中年男性が白衣に袖を通しながら、警備員に連れられて駆け込んできた。  丸い眼鏡が特徴の、鬼怒川医師だった。  鬼怒川は、湊斗の様子を一目見るなり、眉間のしわを深くした。 「これは……ひどいですな。  出血が多すぎる……。  ショック状態にあります。  すぐに輸血をする必要があります」  医師の見解に、この世の終わりを迎えたように絶望した表情で、富子が鬼怒川の腕を掴む。 「湊斗は、息子は助かるんですか!?  助かりますよね、先生。  助かると言ってください!」  富子の言葉に、医師は難しい顔をして、目を伏せた。 「奥さま……。  お気持ちはお察ししますが、断定はできません。  湊斗さんは昏睡状態にあります。  私も、手を尽くしますが、覚悟はしておいてください」 「そんな……」  富子は重力に逆らえず、地面に座り込んでしまう。  そんな妻を気力だけで支えながら、定国は鬼怒川に深く頭を下げた。 「お願いします、先生、どうか息子を救ってください」  鬼怒川は頷くと、警備員に、湊斗を自分の部屋に運ぶよう指示した。  治療のために湊斗とともに離れを去って行った鬼怒川を見送った富子は、充血した瞳を朧に向けた。  その目には、憎しみの炎が燃え盛っている。 「あなた、そこの小娘を、どうするつもりなの?」  富子の言葉に、定国は、困惑の表情を浮かべる。 「龍ケ崎で、痴情(ちじょう)のもつれから当主が刺されたなどという醜聞(しゅうぶん)が広まるのは、避けなければならない。  通報して、騒ぎが世間に広まれば、龍ケ崎の求心力が低下するのは目に見えている。  虎視眈々と、龍ケ崎を引きずり降ろそうと画策している家にとっては、願ってもない好機になるだろう。  先祖代々受け継いできた龍ケ崎の影響力を守るためには、小娘を警察に突きだすことはできない」 「じゃあ、どうするの?」  定国は苦渋の表情を浮かべると、視線を、不要な物をしまっておくだけだった蔵へ移した。  ()しくも、昼間、朧が身を隠していた蔵だった。 「あそこに閉じ込めておく」  定国は、警備員に、朧を蔵に連れて行くよう指示した。  もつれた足取りで、警備員に挟まれた朧は、ほこりと湿った匂いが充満する、明かりひとつない蔵の中へと放り出され、重厚な扉が閉められる。  薄く差す月明かりに、震える手をかざす。  湊斗の血が、べっとりと付いている。  心が飽和しているようにも、ぽっかり穴が空いたようにも感じられた。  早く冤罪(えんざい)であると誤解を解かなくてはならない、そう思うのに、頭が上手く働かない。  やがて、朧の頬を、涙が伝った。  それは、時間を経るごとに、大粒になり、ついには、子供みたいにしゃくり上げながら、朧の頬を濡らし続けた。  湊斗に、助かってほしい。  生きてほしい。  今の朧にできることは、ただ湊斗の無事を祈ることだけだった。  時間の流れが遅い。  世界にたったひとり取り残されたような孤独感。  いつまでそうして、放心していたか。  湊斗に会いたい。  その一心で、朧は立ち上がった。  扉には外から施錠されていたが、昼間ここを訪れたとき、古びた鍵が壊れていることは知っていた。  長年手入れがされておらず、壊れていることに、誰も気づいていないのだろう。  案の定、ガタガタと乱暴に扉を揺らすと、金属質な何かが割れる音がし、扉が開いた。  外はまだ暗く、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。  見張りはいなかった。  先程の騒ぎなどなかったように、世界は静寂に支配されていた。  湊斗はどこにいるのだろう。  朧は、あてもなく歩き始めた。
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