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☆☆☆
「はあっはあっ……」
夜闇のなか、朧は湊斗を探して駆けていた。
龍ケ崎の所有する土地は広大だ。
離れや倉庫や蔵などが、敷地内にいくつも点在し、周囲は林に囲まれていた。
まもなく夜が明ける。
青みがかった紫色が、漆黒の空を侵食し、朝焼けを連れてくる。
「女がいないぞ!」
「逃げた、探せ!」
複数の警備員の声があちらこちらで上がり、闇に松明の光りが、ぼおっと遠くに浮かぶ。
朧は焦って、木々に身を隠しながら、荒い呼吸を整える。
見つかるのも、時間の問題だった。
「いたぞ、あそこだ!」
背後から野太い声が追いかけてきて、疲労が溜まり、動かなくなった足を引きずりながら走り出す。
追い立てられるように逃げ回っていた朧は、敷地を取り囲む林に逃げ込んでいた。
黒い影に染まった林を抜けると、突然景色が開けた。
飛び込んできた光景に、朧は慌てて足を止めた。
目の前に、断崖絶壁が広がっていた。
行き止まりだった。
逃げ場はない。
数十メートルの眼下には、真っ黒な海が広がり、岸壁に打ちつける波しぶきが静寂を打ち破る。
引き返そうとした、そのときだった。
「初めまして、あなたが朧さんね?」
林から姿を現したのは、見知らぬ女性だった。
暗がりでもわかるほどに整った顔立ちに、均整のとれた細身の身体を、ワンピースに包んでいる。
着物姿の朧より動きやすいせいか、朧を見つけてすぐに追いついてきたようだ。
「あなたは……?」
女性は薄く笑みを唇に形作る。
「私は小花。
湊斗さんの妻よ」
新しい湊斗の妻。
湊斗から、まだ会ったことがないと聞かされている、今の湊斗の正式な妻。
小花の登場に、朧は現実を突きつけられた思いがして、少なからず衝撃を受ける。
今の自分には何の肩書もない、何者でもない存在なのだと改めて思い知らされる。
「わかる?
今の湊斗さんの妻は私なのよ。
これ以上、私と湊斗さんの邪魔はしないでちょうだい、迷惑だわ。
すぐにここから出て行くことね。
従わないというのなら、力づくであなたを排除する必要があるけれど、どうする?」
妙に圧力を感じさせる小花の口調に、たじろぎながらも朧は何とか言葉を返す。
「確かに、わたしはもう湊斗さんの妻ではありません。
けれど……わたしは湊斗さんのことが好きです。
湊斗さんもきっと……。
だから、ここを出て行くことはできません」
決然と告げた朧を、あざ笑うように見下ろして、小花は「……そう、わかったわ」とだけ呟いて、残虐な笑みを浮かべる。
一歩、また一歩と近づいてくる小花に圧され、朧は後ずさる。
小花の手には、湊斗の腹部を貫いた短刀と、同じものが握られていた。
「あなたが……湊斗さんを刺したの?」
「いいえ、私じゃない」
《直接手を下すなんて浅はかなことはしないわ》
小花の心の声が、彼女が何らかの形で湊斗襲撃に関与したことを裏付けている。
直接的にではないにしろ、小花が湊斗に危害を加えたのは間違いない。
朧の中に、経験したことのない怒りの感情が生まれる。
許せない。
何の罪もない湊斗を刺し、傷つけるなんて。
きっと朧が睨みつけると、小花は勝ち誇ったように不敵な笑みを見せた。
短刀が、きらりと妖しく光る。
対する朧には、武器といえるものがない。
形勢は不利だった。
朧の背中を、冷たいものが流れ落ちる。
どうする?
状況を打破する方法は何かないのか?
《今なら誰も見ていない。
絶好の機会だわ》
なす術なく立ちすくむ朧へと、小花が突進してくる。
まずい、と思った瞬間には、朧の身体は宙に投げ出されていた。
小花の渾身の体当たりで崖から落ちたのだ。
「湊斗さんを誘惑した、あなたが悪いのよ」
小花のその呟きを聞いたのを最後に、浮遊感に包まれた朧の目に映る景色が目まぐるしく変わった。
天地がぐるんぐるんと入れ代わり、切り立った崖と朧を迎える、岩をも砕く獰猛な波を立てる黒い海とが交互に映る。
全ては、スローモーションのようだった。
身体は生命の危機を訴えているのに、頭は妙に冴えていて、ああ、自分はもうすぐ死ぬんだな、と冷静な判断を下す。
一目、湊斗に会いたかったな、と考えながら、諦念の境地になり、目を閉じ、迫りくる衝撃に覚悟を決めた。
長い長い時間をかけて落下する──そう思っていた朧の身体は、次の瞬間、柔らかい何かの上に落ちた。
海に落ちたのではない。
では何が……。
恐る恐る瞳を開くと、強烈な朝陽が朧の目を焼く。
夜明けだ。
そして、自分を受け止めたものの正体を確認した朧は、驚きに目を見開いた。
黄金に彩られた巨体、真紅に縁取られた、鮮やかなうろこを持つ龍が、朝陽を浴びて、神々しく光り輝いていた。
龍は身体に朧を乗せ、凄まじい速度で崖を昇り始める。
強い風が生まれ、朧は龍にぎゅっとしがみつく。
温かな、龍のぬくもりには、覚えがあった。
──湊斗。
ものの数秒で、朧は元いた崖の上へと送り届けられる。
地面に降り立つと、口をあんぐりと開けた小花と、駆けつけてきたみゆきや富子、定国が同じようにぽかんとした間抜けな表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「湊斗さん……」
朧は、龍の頭、ぎょろりと突き出たその瞳を覗き込む。
「湊斗さん、ですよね。
無事、だったんですね、本当に良かった……。
助けてくれて、ありがとうございます」
朧は龍の──湊斗の巨体を可能な限り手を広げて抱きしめる。
龍ケ崎家の始祖は、伝説上の生き物、龍であるという。
その血を受け継いできた龍ケ崎の当主には、強い異能が宿るという。
龍に変身するというのもまた、龍ケ崎家が持つ異能のひとつなのだろう。
愛おしそうに龍に触れていた朧の手が止まり、眉をひそめる。
手のひらにべったりと付着した血。
「湊斗さん、まだ怪我が……!」
あれだけ大量に出血していたのだ。
不死身ではないのだから、そんなにすぐに傷が癒えるわけがない。
「無茶しないでください!」
朧が涙声で言うと、龍は甘えるように、朧に頭をこすりつけてきた。
《お前が危険にさらされているのに、黙って見ていられるか。
それより、お前、俺が怖くないのか?》
龍の心の声が流れ込んでくる。
「怖い?
どうしてですか?
湊斗さんを怖がるわけないじゃないですか」
朧が心底不思議そうな顔をすると、表情が変わるはずがない龍が、鼻で笑った気がした。
《他の連中は、そうでもなさそうだがな》
言われて、振り返る。
小花を始めとした龍ケ崎家の面々は、龍となった湊斗に怯えた眼差しを向けていた。
言葉を発せないはずの龍と、こともなげに会話する朧を、奇異なものを見るような目つきで眺めながら表情を強張らせている。
龍は数十メートルはある巨体をくねらせて、鼻先を小花の顔すれすれに寄せる。
《俺を刺したのはお前か?》
言葉を発さない龍の威圧感に圧されたのか、小花は震える声で、それでも毅然と言い放つ。
「私じゃないわ!
私はあなたを刺した犯人ではない」
龍の言わんとしていることが伝わったのか、小花の言葉を聞いたみゆきが、おずおずと手を挙げる。
「わ、私です!
湊斗さんを刺した犯人は、私なんです!」
《──わかっているわね、みゆき。
万が一のことがあったら、あなたが罪を被るのよ。
あなたの家族への経済的支援は、約束するから》
朧は不快そうに眉をひそめる。
聞こえてきたのは、みゆきの心の声──ではない。
みゆきの心の中で再生された、小花の声だ。
《どうしよう、旦那様を、本当に刺してしまった……。
どう償えばいいの……?》
次いで、憔悴しきったみゆきの心の声が流れ込んでくる。
小花はみゆきの弱みを握って、彼女を意のままに操り湊斗を刺すという汚れ仕事をさせたのだ。
「小花さんは関係ありません!
全て、私がやったことです。
旦那様が、あまりにも小花さんをないがしろにするから、腹が立って……」
すると、龍がぐるりと頭を巡らせ、みゆきの顔に肉薄した。
そして、咆哮を上げた。
《そんな低級な嘘が俺に通じるか!
俺は全て見ていた。
全てを企てたのは小花だ》
湊斗の保有する異能、千里眼。
「もしかして、湊斗さん、小花さんが、湊斗さんを刺すよう、みゆきさんに命令していたことに気づいていたんですか?」
肯定するように、龍が再び唸り声を上げた。
《小花やみゆきの記憶を見るのは、俺にとっては造作もないことだ》
「じゃあ、自分が刺されることも、わかっていて……?」
《そうだ。
龍は致命傷を負わない限りそう簡単には死なない。
みゆきも、怖じ気づいたのか、手加減していた。
小花の企みを暴いて、この家から追放するために、わざと刺されてやった。
愚鈍な両親も、これで小花の本性を思い知っただろう》
しかし、みゆきは愚直なまでに小花をかばう言葉を止めようとしない。
「私が……やったことです。
小花さんは、関係ない」
「そ、そうよ!
みゆき本人がそう言っているんだから、その通りに決まっているじゃない!
私は悪くないわ!」
《まだ言うか!
見苦しい!》
三度、龍は咆哮を朝焼けの下に響かせる。
するすると地上を移動すると、龍は小花の身体に巻き付き、小花の細い身体を、ぎりぎりと締め付け始めた。
「きゃあっ、苦しい、やめて!」
龍から逃れようと、じたばたと小花はもがくが、龍はぴくりともせずに、小花への締め付けを強くしていく。
「や……やめて……。
私が、悪かった、わ……。
だから、もう……」
息も絶え絶えになりながら弱々しく小花が声を洩らす。
《お前は朧を殺そうとした。
朧を傷つけるやつは、誰であろうと許さない。
死んで詫びろ!》
湊斗が、いっそう強く締め付けようとした矢先、朧が龍の身体にしがみついて叫んだ。
「もうやめてください、湊斗さん!
小花さんが死んでしまいます!」
《この女はお前を殺そうとしたんだぞ。
情けをかける義理などないだろう》
冷徹な湊斗の声に、畏怖の念を抱きながらも、朧は精一杯首を横に振る。
「わたしは小花さんが死ぬことを望んでいません!
湊斗さんが人を殺してしまうほうが恐ろしいです!
今の湊斗さんは、わたしが好きな、優しい湊斗さんではありません!
こんな湊斗さん、嫌です、嫌いです!」
ふと、龍の動きが止まる。
《俺を、好き……?》
「そうです、わたしが大好きな湊斗さんに戻ってください!
でないと、わたしは湊斗さんを嫌いになってしまいます!」
《それは、嫌だ。
朧に嫌われるなんて、耐えられない》
しゅるしゅると音を立てて、龍が小花の身体を解放し、すがるようにその目を朧に向ける。
叱られた子犬のような、しょんぼりとした瞳だった。
小花が地面に崩れ落ちる。
《朧、これで俺を嫌いにならないか?》
朧は、龍の頭に優しく触れると、「はい、これがわたしの大好きな湊斗さんです」と笑顔を見せると、ゆっくりと硬いうろこを撫でる。
龍は気持ち良さそうに目を細め、朧にされるがままになる。
《好きだ、朧。
愛してる、ずっと》
少し照れながら、はにかんだ笑みを浮かべて朧が答える。
「わたしも、愛しています、湊斗さん。
ずっと、永遠に」
そして、目を閉じた龍はなんの前触れもなく、いつもの地味な着物を着た湊斗の姿に変わった。
意識を失い倒れ込んだ湊斗を、朧が慌てて受け止める。
座り込んだ朧の手の中で、湊斗はすやすやと、穏やかな寝息を立てていた。
まだ血がこびりついた湊斗の美しい顔を、慈愛に満ちた指先で撫でる。
「ありがとうございます、湊斗さん」
涙をこらえるように、天を仰いだ朧に、地を温める陽光が祝福するように降り注いだ。
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