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③
一人で公園へと続く道を歩くのは、太陽も落ちた宵の口。
この時間にこの道を歩くのはもういつものことだ。
街灯の光が道路の道にぼんやりと白い不透明な影を作る。
車道の真ん中を堂々と歩けるぐらいには、車も人も来ない。
この道は朝方の小学生たちの通学路なのに、夜の八時を回ったら極端に人の数が減る。
今この半径数十メートルには私しかいないんじゃないかと錯覚するほど。でもそれが助かる。
思考を巡らしながら公園に辿り着いた。
私の家から数分の、あの日佑李と出会ってしまった公園。
塾のない水曜日はここで歌うのが、私の習慣だ。
昨日は佑李にこの場所を特定されてしまったから歌いづらくて、今日は塾が休校なのを良いことに足が向かっていた。
歌いたい。
ただそれだけの感情だ。わざわざ人が少ない時間を選んでいるのは、自分自身と向き合いたいから。
公園の一番奥、草の茂みを向き誰もいない空間と向き合う。
無音を思わせるような静けさに心が一瞬怯む。
必要ない感情を追い出すようにスウっと息を吸い込み、ゆっくり吐き出して音をはく。
私しか存在しないこの空間の中で、私のはく呼吸音だけが響く。
よし。歌おう。
歌うのは日本語の言葉遣いが綺麗で、ベースもメロディーも唯一無二のアーティストの歌。
人の心に寄り添う歌詞で、すさんだ心に自然に入り込んでくるあたたかさを伴った代表曲だ。
奏でるメロディーは最初は不規則に揺れていたけれど、次第に安定してくる。
声にハリが出てくる。まだ足りない。まだ出し切れていない。
耳に入り込むのは私の歌声だけ。
誰にも邪魔されない、私の歌声で作り上げた自分の聖域。
考え事も邪念も何もかも体からいなくなって、夢中で歌っていた。
一曲歌い終わって、か細く息を吐く。
急に湿った夜風が吹いて一人を実感した。
……今日はこのくらいにしておこうかな。
と、後ろを振り返った時だ。
備え付けてあるベンチの裏で何か影が動いた。
一瞬見間違いかと思ったけれど、その後なかなか動きがないことが余計に気になった。
「……」
足音を立てずにベンチに近寄る。
この時間帯に、人気の少ないこの公園で、私から隠れる人影なんて……。
姿を目視した瞬間、私は足の裏で砂の地面を思いっきり踏み締めた。
「佑李!」
「バレちゃったぁ」
小さく体育座りをした姿勢で私を見上げている、佑李。
闇に紛れる地味な色のパーカーとスウェットのズボン。
薄暗闇の中でもひしひしと伝わる、相変わらずのヘラっとした態度。
私は荒々しく息をつき腕を組んだ。
今日は歌声を聴かれて恥ずかしいとかそういうことではなく、ただ単純に怒っていた。
佑李はいつもそうだ。こっそり近付いて盗み聞きのように聴いている。
こんなところで感情を爆発させてもしょうがないから目を瞑って耐える。
だけどキリキリとこめかみに筋が入る音さえ聞こえる気がした。
こいつ……もはやストーカーだ。なんでイレギュラーな今日のことまで知っているのか、問い詰めたいけど逆に恐ろしい。
「実子、怒ってる?」
「怒ってる」
即答すると佑李は黙った。
「……僕、どうしても実子の歌を聴きたくて……」
目を瞑っているから見えないが、明らかに首を俯けていそうな声色。
そしてあからさまに下手に出た態度。
うすら目を開けたら、やはり首を俯けて指先をこねくり回していた。
そんな簡単に許してやらないと心では思いながら、口からは勝手に声が出る。
「家帰らなくていいの?」
叱ることをやめた声に、パッと首を持ち上げた。
反省の色のカケラもなく見える。
「僕の家、あそこなの」
佑李が指し示した方向……通りの先の方にあるマンション。
「あぁ……」
事情を理解して、ため息のような諦めのような声がもれた。
佑李が住んでいるあのマンションの窓からこの公園は丸見えなのだ。
声は聞こえないにしろ、私のことを知っている佑李は窓から公園を見れば私がいることは一発で分かる。
そしてきっと今日もそうなんだろう。
何も言わなくても佑李がここに来ることができる、からくりが分かった。
「昨日、実子歌いに来なかったから。僕に会いたくないからだろうなぁって。そしたらさっき実子のことが見えて、思わず来ちゃった」
来ちゃった、じゃないんだよ。
佑李は調子を取り戻してテヘッとあどけない笑顔を浮かべて私を見上げる。
じろっと睨みおろすと佑李は肩をすくめて小さくなる。
「ごめんなさぁい……」
目尻まで下げて子犬のように謝った。
いつも図々しいくせに、こういう時だけしおらしくなって。
どこまで演技なのか、それとも本心なのか分からないのが面倒くさい。
この気まずい空気に私の方が降参して、頭をかく。
「分かった分かった。もうこの話はやめるから。あんたのその態度、逆に腹立つ」
佑李の頭に手をポンと置いて不器用に微笑んで見せた。
なぜか佑李の目が丸くなる。
そこで気が付いた。今日は佑李、いつものタッセルのイヤリングをしていない。
学校帰りだからだろうか。
そんなこと気にしている余裕なんてないはずなのに、なぜか気になった。
「実子、初めて僕の前で笑った。笑った顔かわいいね」
勢いで頭に置いていた佑李の髪の毛をぐしゃっと握りつぶしてしまった。
「いたぁっ」
「あっ、え、ごめっ」
慌てて離しながら、だけど佑李のことを鋭く睨む。
「調子に乗って変なこと言わないで」
そこで佑李がすぐに「ごめんなさぁい」といつもの調子で謝るからカチンとくる。
だけど心臓は変にドクドクと鳴っていた。
普段、人から褒められることなんて全くないから動揺した。
狙いはなんだ?とまで勘繰ってしまう。
「ねぇ実子。さっき歌ってた歌、有名な邦楽でしょ?」
急に佑李が話題を変えるから、動揺を悟られないようにじと目のまま「そうだけど」とそっけなく呟く。
「先週は洋楽だったよね。実子はなんでも歌えるの?」
「先週って……よく覚えてるね」
呆気に取られて口が開いていく。そういえば先週は洋楽だったっけと今思い出す。
佑李はフフンと小さな体をのけぞらせて得意げだ。
「だって実子のファンだもん」
嬉しそうに笑う姿に、本気で私の『ファン』なんだ———と改めて自覚する。
私は喉まで出かかっている言葉を言うかどうか迷った。
……この際、聞いてしまえ。
「じゃあ、ファンに聞くけどさ。一体私の歌のどこが好きなの?」
ちょっと照れて小声になってしまった。言い終えてドキドキする。
さぁ佑李。その達者な口で私の歌の好きなところを語りなさいよ!
しかし佑李は表情を変えずに口を閉ざしたまま。
私は少しだけ待ってあげた。
「……ないの?」
ざわっと重たい感情が広がる。ただ私を棚に上げていただけだったの?
しかし佑李はしばらく私の言葉を頭の中で繰り返しているように見えた。
「違うよ、実子」
落ち着いた口調で私を見上げた。
その瞳には薄暗闇の中でも輝く強い光が宿っている。
「好きなところがありすぎて困ってるの」
「え?」
言われたことが飲み込めなくて聞き返した。
佑李は腕を組んで下を向く。
「そうだなぁ。まず普通に歌が上手い」
ドキッと言葉が心に刺さった。
「それに声に透明感がある。力強いのに優しくて、迫力があるのに海みたいに静かで。あ。あと歌の雰囲気によってちゃんと歌い分けてるところも好き!先週の洋楽は明るく元気な歌声だったけど、さっきの邦楽のバラードは人に寄り添うような優しさで……って、実子?」
嬉々として語っていた佑李が突然語りを止めた。
慌てたように私の顔を覗き込む。
「えっ?」
私は顔を動かしたはずみに、何か頬へ垂れてくる感覚に驚く。
これ、涙?
瞬きをしてクリアになった視界の中、佑李の焦ったような顔が見える。
「実子……?ごめん、なんか泣かしちゃった?またダメなこと言った?」
本気で心配している様子の佑李に、私は慌てて手で涙を拭う。
自分が泣いていることに全く気づかなかった。
「違う、そうじゃなくて。すごく、嬉しくて……」
佑李が言ってくれた言葉に耳を傾けていたら、感情の方まで気が回らなかった。
嬉しいんだ。こんなに、私の歌を好きって言ってくれることが……。
佑李はしばし私の様子を伺った後、あからさまに肩を下げて「そっかぁ。良かった」と笑う。
私は涙を拭き切って冷静になる。
少々気まずげに佑李のことを見やった。
「ごめん、気遣わせて」
「全然謝ることじゃないよ」
そしたら佑李は、自分の左手を上げて下ろして……という動作を何度か繰り返した。
そして、意を決したように背伸びをして私の頭に手を乗せる。
さっき私がやってみせたみたいに。
身長の差なんて、年齢の差なんて気にさせないような距離。
こんなに真正面から人と向き合うことが少なくて、心がひっくり返るような感覚になる。
佑李の瞳が私を捉えた。
「実子の歌はすごく綺麗。僕、実子の歌大好きだよ」
佑李の怖いぐらいに心に沁みる優しい声に、胸の中で熱いものが弾けた。
——どうしてそんなに嬉しいことを言うの。
「……年上を揶揄わないでよね」
また泣きそうになってしまい鼻をすする。
佑李は分かってるよ、とでもいうように無言で微笑んでいた。
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