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②
悶々と考え込んでいるうちに、やっぱりこれは夢なんじゃないかと錯覚する。
しかし握り込んだ手のひらの痛みに、家のベッドで瞑想していた私にやっと現実が降りてきた。
私は、ストレスがかかると手を強く握り込む癖がある。
今も目に見えないストレスがかなりかかっていたみたいだ。
爪の跡が残った手のひらを見て、重く息をつく。
……本当に余計なことをした。
ぼふっとベッドに突っ伏したまま、起き上がる気力もなく重力と共に沈んでいく。
佑李の『推し活』という言い方にもっと警戒するべきだった。
それに私の歌を好いてくれているんだから、佑李の前で歌うことに気付くべきだった。
あの脅し方じゃ許可せずにはいられないけど、ああいうのって脅迫じゃないの?
年下だからって許される行為じゃない。
でも一度許可してしまったことを今さら翻すのも気が引けるし。
……何より、必要以上に佑李に関わりたくない。
首だけ横に向けて、魂が出ていきそうなほど深いため息をつく。
思考をめぐらす体力も残っておらず、精神状態も限界に近い。
なんにもできない状況の中、一言「あ」と呟いてみる。
音程をとらないその一言は空気中にこだまして消える。
この一文字一文字の音が集まって、歌はできるんだ。
「う さ ぎ お い し か の や ま」
単調なリズム。今は音程をつけるよりも、一音一音を発して歌いたいと思った。
歌は正直だ。
心の様子をそのまま外に出せる。
気持ちが沈んでいたらハキハキなんて歌えないし、ありあまるパワーをぶつけたい時は音程なんて気にしている場合じゃない。
歌うことで私は感情を整理し、気持ちを落ち着けることができる。
「なのになんで……」
挑発に負けて、自分の生き甲斐である歌を軽くあしらわれたことが、どうしようもなく悲しい。
***
そんな私の気なしに、佑李は今日もニコニコと笑みを浮かべて待っていた。
というか呼び付けられた。
あのスマホを片手にひらひら、佑李の手で踊らされている状況に苛立ちは増していく。
「来てくれてありがと〜」
返事の代わりに佑李をめちゃくちゃ睨んでやった。
精神が常人の三倍ぐらい図太い佑李には全く効果がないけれど。
「だって来ないと拡散するんでしょ。ほんと性格悪いよね」
言葉の端々に、というか隠す気すらない私の嫌悪にも佑李は受け流して微笑んでいる。
その気楽さにまた精神が逆撫でさせられる。
「それでいつ推し活していいの?」
すぐに話の主導権を自分に持っていく佑李。
佑李の会話術は巧みで、放っておくといつの間にか佑李のペースにもっていかれる。
ならばもう本題に入ってしまえ。
「一つ考えたんだけど」
私は静かに言い放った。佑李は小さく首を傾げる。
「なに?」
私は、佑李の視線を指揮するようにもったいぶって指を一本立てて見せた。
「条件がある。その、私を推す……っていうのは一日だけ。それを約束して」
昨日の夜、考えたんだ。
やっぱり私は自分の歌をむげにしたくない。
だからって一度肯定したものを無しにするのが嫌なのも事実だ。
だから一日だけ。一日だけ、私は佑李のごっこ遊びに付き合って、推しとやらになってあげる。
そう決めた。
佑李はしばらく私のことを見つめていた。
私は見かけは普通に、だけど心の中は緊張の面持ちで佑李をまっすぐ見据えていた。
どうにか要求を呑んでもらわないと……。
「いいよ」
想像していたよりも十倍はあっさりと佑李は頷いた。
「え、いいの?一日だけだよ?」
「うん」
「それ以外の日は私に関わらないでってことなんだけど」
「えぇー。流石にそれは意味が重複しすぎてない?」
少々不満げだが、それでも佑李はそれ以上駄々をこねなかった。
そのことに少しだけ安堵する。
「じゃ、じゃあこの話は終わりで。推し活していい日はまた後日伝えるから」
別に、このまましらばっくれるつもりはなかった。
私にも心の準備ってものがあるし、そもそも私は仮にも受験生なんだし勉強も忙しい。
色々落ち着いてからまた連絡しよう。うんそうしよう。
「ライブとかしないの?」
「は?」
背を向けかけていた中途半端な姿勢で目をむくが、佑李の瞳の輝き度は増す。
佑李が突拍子もないことを言い出した。
とてつもなく嫌な予感がする。
「歌手とかアイドルとかってライブするもんでしょ?」
「いや、私は歌手でもアイドルでもないから」
放っておくと大ごとになっていきそうで思わず口を挟む。
だが一度その気になった佑李は止められない。
つらつらと思いついたままに言葉を口に出している姿はいかにも自由気ままな少年そのものだった。
「どこか会場とか押さえる?あの公園って近くに公民館あったよね?お願いしたら中学生でも使えるのかなぁ」
口を挟む間もなく話が広がっていく。
佑李の目はひたすらに純粋で、『ライブを見たい』という気があってのことだ。
その無邪気さが逆に恐ろしい。
「僕だけじゃもったいないよなぁ。もっと実子の歌を聴いてもらいたい。クラスの友達とか誘ったら来てくれるかな?」
待って、まずい展開になってきた。
おそらく悪気なんて微塵も考えていないだろう、夢中で喋りを続ける佑李の片手を取る。
考える間もなく口を開いていた。
「——ファンは、佑李だけでいいから」
「え?」
今まで流暢に話していた佑李の口の動きが止まり、目を丸くする。
そのあどけない表情の中に見えた驚きの顔に、私の頭の方が先に冷静になった。
……私は何を言っている?
「えーっ。実子の素敵な歌、僕だけが独占して良いの?それも嬉しいなぁ。じゃあ実子は僕のためだけに歌ってくれるんだね?」
この機会を逃すまいと、さっきよりもさらに早口で捲し立てる佑李。
だんだん頭が痛くなってきた。
素早く手を離し、佑李が喋り終わる前からうんうんと適当に相槌を打っておく。
佑李は本当に抜け目ない。まずい、話の雲行きが怪しくなってきた。
「それで、いつ?ライブはいつ?ファンクラブとか作らないの?」
「なんで佑李一人だけのためにファンクラブ作るの」
口元が引きつっていく。
佑李は私に手を握られたことに対してもスルーで、いつも通り平常運転。
一応異性だからと、変に意識した自分がバカみたいだ。
「だって僕は実子のファン一号だよ?」
「やめて、勝手にファンクラブを作ろうとするな」
この関係が続くことだけは勘弁してほしい。
その一日だけの推し活が終わったら、この関係も終わりなんだ。
「そうだーっ。今度の日曜日とかどう?僕、一日空いてるんだよね」
日曜!?
あまりに具体的な日付に身の毛がよだった。
だけどここで冷静さを欠いたら負けのような気がして、私は無表情の面を被る。
「いや早すぎるし、それに一日も時間とって何すれば良いの」
「僕のために歌ってくれれば良いの」
佑李はにっこり、いつもの作り笑顔。ほんと悪魔だよこいつ。
佑李の顔を見つめたまま眉を上に跳ねる。
意志の固い佑李は動くはずがない。
……長引かせるより早めに終わらした方がいい。
そんな考えが浮かんでしまった。
いや、心の準備なんて全くできてないし、日曜ってあと三日しかないじゃないか。
心の底からめっっちゃ嫌だけど、頭から危ない危険信号が出てるけど、——腹をくくるんだ、私。
正直な唇はなかなか動いてくれないけれど、無理やり動かして音にする。
「……分かった。今週の日曜ね」
「やったー!」
小躍りする佑李を「踊るな騒ぐな」と一蹴しながら、私は佑李に聞こえるように大きくため息。
あぁ、昨日のシュミレーションではもっと上手く行ったのに、なんでこうなった——。
「じゃあ僕、ペンライトとかうちわとか作っておくねー」
「やめろ!」
佑李はペッと舌を出して笑った。ムカつく!
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