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④
佑李はまるで、多面体のように色々な顔を見せる。
どれが本当の佑李なのか分からないけど、あの子はただのふわふわしている後輩だけじゃないということは分かってきた。
「実子ー。まだ?」
「ま、待って……」
現実を忘れるように違うことを考えていた私を、容赦なく佑李は呼び戻す。
そして今の佑李は、昨日の夜の公園にいた佑李とはまるで別人だった。
深呼吸を繰り返す私の横で、佑李は何度目かのかみころしたあくびを手で隠す。
「大丈夫だって。隣で聴いてるのは僕だけだよ?」
「それは分かってるんだけど……」
分かっているんだけど、体がずっと拒否しているのかスマホの上の方で固まる手は一向に動かない。
佑李が退屈そうに腕を上げて伸びをした。
隣で佑李がみじろぐごとに心拍数が上がり、スマホの画面には再生ボタンの表示が永遠に光っている。
握り込む佑李のスマホの画面には、私が公園で歌っている動画。
今さっき図書館でばったり遭遇した佑李のおしゃべりに付き合わされ、流れで「そんなに私の歌って聴いてて楽しい?」と聴いた挙句の果て。
佑李に「自分で聴いてみたら魅力わかるよ!」とこうなった。聞かなきゃよかったと心の底から思う。
その間、佑李はずっと隣で待ってくれている訳だけど、正直隣にいられると再生しづらいからどこか行ってほしいというのが本心だ。
このまま休み時間が終わるまで見ないで——、
「僕は休み時間終わるまで移動しないよ。今日聴かないなら明日またここ来てね」
「……」
佑李を半目で見つめて……いい加減聴くかと覚悟決める。
図書館の隅っこ、誰も私たちのことを気にしていないことを確認して、もう一度深呼吸をしてから再生マークをタップした。
改めて自分の歌を録音で聴くって、すごく緊張する。
今まで好きに歌ってきただけだから、自分の歌を聴き返すなんて初めてだ。
接続されたイヤホンに動画が始まるノイズが響く。
背を向けた私の後ろ姿がうつり、一拍遅れて響く自分の声。
2、3分程度の動画だけど、緊張した私の耳にしっかり入り込んでくる。
躊躇いは長かったのに聴くのは一瞬だった。
……私の歌って、こんなふうに聞こえていたんだ。
「聴き終わった?どうだった?」
佑李がグイグイ距離を詰めてくるから、半歩隣にズレてスマホを返す。
自分で聞いた感想としては、お世辞にも上手だとは思えなかった。
「……なんか、歌詞が棒読みだった。この歌はもっと明るく跳ねるイメージなのに、私の歌は全然……」
もっと改善点はあるしもっと上手に歌いたいって向上心もある。
緊張とは違う意味で心臓が速く脈打っていた。
「え〜?僕はそういう感想が聞きたかった訳じゃないんだけどなぁ。自分の歌うまいって思わないの?」
佑李は心底不思議そうな目だ。
「まさか。自分の歌が上手いと思ったことなんて一度もないよ」
「え。じゃあ、なんのために歌ってるの?」
なんでって——。
唇に接着剤が塗られたみたいに口が開かなくなった。
ここで本当のことを佑李に言うのはなんだか憚られて、代わりの言葉を必死に頭を働かせる。
「……歌いたいから、歌ってるだけ」
嘘じゃない。歌いたいから歌っているんだ。
「ふぅん」
佑李は目を細めて私を凝視している。
それだけじゃないだろって目。
吸い込まれていくようなその眼に見続けられたら何かうっかり零してしまいそうで、勢いよく立ち上がる。
「さ。帰るよ。終わった」
「はぁーい。ね、日曜はライブの日だよ。忘れてないよね?」
キラキラ輝く佑李の目が追ってきて、私は逃れるように視線を外す。
「うん…………」
あまり考えないようにしていたけど、ライブ日とやらが明後日に迫ってるんだよね。
もしかして何かの間違いじゃないかと考えるけど、いい加減諦める。かなり胃が痛い。
「次聴く時はもっとレベルアップしてるんだよね?楽しみにしてるね」
チラリと視線を移すと、佑李の瞳は宝石のように輝いている。
純粋無垢だと思いたいその瞳からゆるゆる目を逸らし、心の中でため息。
一回自分の歌を聴いただけでレベルアップできるかなんて分からないけど、とりあえずそういうことにしておこう。
どうか日曜日を無事に終えられますように……。
二人で廊下を歩きながら、ふと最近は休み時間のたびに佑李と一緒にいるなと気がつく。
示し合わせている訳じゃないのに、気付けば佑李が隣にいるんだ。
九割は佑李が勝手に隣にいるんだけど、佑李はなんでそこまで私に執着するんだろうか。
「そういえば、今日しれっと図書室で私の隣にいたよね?」
「うん?」
それがどうしたの、というような顔をされてこめかみに小さく筋が入る。
「まさか私のあとつけてたの?」
「違うよー。僕、休み時間は大体図書館にいるんだよ」
「見え透いた嘘を……」
私はため息をつく。佑李は「ほんとだよ?」といつもの甘い声で淡々と言ってのける。
これ以上会話を続けても無駄だと判断し、私は沈黙した。
休み時間は残り二、三分ってところだ。
「じゃ、またね実子」
「廊下走らないでよね、危ないから」
「あははー」
走るなと言った側から走り出す佑李。ちゃんと聞こえているのだろうか。
揺れるタッセルの残像が、なぜか目に残った。
「工藤さん」
佑李と別れた後、教室で後ろから声をかけられた瞬間……嫌な予感が全身を貫いた。
クラスで工藤という苗字は私だけなんだから、振り返らざるを得ない。
声をかけてきたのは一度も話したことのないクラスの女子だ。
私は警戒した顔で振り向くが、彼女の顔が今まで向けられたことのないほどの笑顔だったのが余計に不信感を募らせた。
「何?」
ポーカーフェイスを保ちながら、内心は心臓が破裂しそうだった。嫌な予感が加速する。
彼女は少しだけ戸惑うような素振りを見せるも、ゆっくり口を開く。
「工藤さん、歌うたえるんだね?」
その直球の言葉は吹雪のように胸の中で吹き荒れ、心臓が凍ったような感覚になった。
——なんで知ってるの?
顔が強張り、目が鋭くなったのが自分でも分かる。
いつの間にか手を握り込んでいて爪が皮膚に突き立つ。
彼女は私の地雷を踏んだことに気付かず話を進めてきた。
「私クラブでバンド組んでてさ。工藤さんって歌うまいの?」
その子の言葉はやけに大きく耳に入る。
……うまいなんて、思ったことない。
今日二度目の発言に胸が張る。
いつまで経っても喋らない私に、彼女は距離を詰めてきた。
反射的に身を引いたから、彼女は「あっごめん」と一歩下がる。
物理的な距離がさっきより若干離れても、私の心はもう完全に危険信号を点滅させていた。
握り込む強さが加速して悲鳴のような声が出そうだ。
「つまり、バンドでボーカルやらない?ってこと。一応声かけただけだからっ。一応、ね」
彼女は最後に念押しして早々に立ち去ろうとする。
バンドでボーカル?どうして急に、しかも全く話したことのない私に。
話が急展開すぎてついていけない。私の知らないところで事態が加速しすぎだ。
「待って」
振り返った彼女は長い髪の毛を翻らせて振り向いた。
心臓の鼓動がドッドッと早まる。落ち着け。冷静になれ。
嫌がる唇を無理やり開いて声を出す。
「私が歌ってるって、なんで知ってるの?どこ情報?」
思い当たる節が一つしかないから、こんなにも気持ち悪い衝動に駆られている。
ううん。違う。あの子はそんなことしない。勝手に動画を流出するはずがない。
私の歌を好きって言ってくれて、それで……。
今さっき別れた、走り去っていく後ろ姿が浮かんだのち、頭の中が真っ白になる。
でもだって、私が歌っている動画を持っている人物なんて——。
彼女は口を開いた。
「同じバンドの子が、友達からもらったっていう動画を見せてくれて。顔は映ってなかったけど、声が工藤さんだったから。あれ違う?」
頭の中が完全に止まった。機能が停止みたいに何も動かない。息をすることでさえ困難だ。
「……そっか」
それ以上何も言わない私を気にしながらも、彼女は話が終わったと認識して離れていった。
問いと答えが噛み合ってなかったかもしれない、と気付いたのはそれから随分後だった。
さっきからずっと強く握り込んでいる手が細かく震える。
頭の中に目まぐるしく感情の嵐が吹き荒れる。
……背を向けてる動画なんて、佑李が撮ってた動画以外知らない。
なんでそれを接点のないバンドの子が持っているのか分からないけど、出所は佑李で間違いない。
——裏切られた。という感情が胸を突く。
拡散なんて、冗談だと思っていた。
いつ佑李は動画を流したんだろうか。ついさっきまでいつも通り私を話していたのに。
あの時にはもう動画を流していたんじゃないか?それに一体動画はどこまで出回っているんだろう。
動画では私の顔は見えてないのに、接点のない子が私だって分かるぐらいには分かりやすかったんだ。
怖くなって体が震えた。
俯いたまま一ミリだって首を動かせなくて、石像のように固まる。
意図せず勝手に世に流された、私の歌——。
意識が過剰になって、血の気が降りて蒼白になる。
なんでこんなことに……。
頭の中に思い浮かぶ、心のうちを見せない佑李の笑顔が無性に腹立たしくて苦しい。
***
そのあとは授業も塾も全く集中できなかった。
全部が頭の上を通り過ぎていって、頭も心も空っぽだった。
帰り道、朧げな光を地面にうつす公園の横道を、鈍い速度で通り過ぎる。
さっきから同じ言葉だけが私の体を萎縮させるように巡っている。
——佑李、どうして。
「実子?」
最初、幻聴だと思った。
地面に揺れる光を潰すように足で踏み締めて歩く。
心臓が壊れてしまって、まともに動いていないような気がした。
「実子」
腕を掴まれて、初めてそこに佑李がいることを知る。
佑李は薄暗がりの中、私の表情を読み取るように目を細めて私を見ていた。
私の様子を感じ取ったのか、いつもの甘い声色じゃなくて冷静で静かな声だった。
「……佑李」
私はそう呟いたきり、目をむいて震える口を閉じる。
ずっと佑李のことを考えていたのに、今ここで顔を合わせても言葉が出てこない。
ただジクジクと心臓が痛くなるだけ。
「実子どうしたの?なんかフラフラしてる」
「それは、」
思わず佑李のせいだと怒鳴りたくなってしまった。
痛い。心臓が痛くて激しく脈打つ。
「ねぇ佑李。私の歌ってる動画、誰かに見せた?」
聞くまでは確信していたが、聞いた後には半信半疑になっていた。
いつもの笑顔で、「拡散?そんななことしないよー」って笑い飛ばして欲しかった。
でも佑李は明らかに息を呑んだ。私にはそれが全てだった。
「……なんで。どうして」
心に重く蓋をして抑えていた言葉が煮えたぎるように溢れ出してくる。
佑李は暗がりの中で確かに顔を青くさせ、掴んでいた私の腕を離す。
「ちが、実子、」
言い訳でもするつもり?
私は佑李を睨む。その目線を受けただけで佑李は萎縮して固まった。
何か言いたげに口が動いているけど音にならない。
それでも佑李は震える口を動かした。
「クラスのバンドやってるやつがさ、聞いてきたの。誰か歌上手い人いる?って。それで、」
佑李の声は怯えるように震えていた。
私は冷静を保とうとして荒く息を繰り返す。
取り乱さずに話を聞けていることを褒めて欲しいぐらいだった。
「僕は実子の歌が好きだから。実子の歌で世界が変わったから、それをもっといろんな人に聞いて欲しくて……それで……」
「だから私の動画を見せたの?」
怒りを噛み殺した声。いや、声に怒りは滲み出していた。
佑李が返答する前に言葉をたたみかける。
「今日クラスのバンドやってる子から、言われたの。ボーカルやってみないかって」
佑李は顔をあげた。その瞳はかすかな光をたたえていた。
「実子、やるの……?」
私を見上げる佑李は迷子のような顔をしていた。
何も言わない私に、すがるような色を見せて言葉を続ける。
「実子、歌ったほうが、いいと思う……。実子の歌はほんとにすごい。もっといろんな人に聞いてもらうべき……」
佑李はもう何を言っても声が震えている。
手を握り込む。皮膚にくぼんだ爪の跡をえぐるようにさらに食い込む。
きっと佑李は、なんで私がボーカルをやらないのか不思議に思っているんだろう。
だけど私はボーカルをやりたくない。
それなのに勝手に佑李が解釈して『人前で歌った方がいい』って決めて、勝手に動画を流して。
今も、「実子は歌った方がいい」って。
心臓が暴走して震えそうになる。呼吸が荒くなる。
それを思いっきり噛み締めて落ち着かせようとしたけど、ダメだった。
「私はそんな理由で歌を歌ってるんじゃない」
鎮めることに全力を注いでいた熱量まで引火して、抑えきれないほどの怒りが爆発した。
これが嫌なの。
周りの影響を受けて自分の歌が変わっていくこと。
そういう無責任さが、他人を苦しめることが、どうして分からないの。
「なんでそうやって勝手に決めちゃうの。それは佑李の価値観でしょ?」
責め立てるように、縮こまる佑李の上で言葉を浴びせる。
いつまで経っても佑李が何も言わないことをいいことに、導火線のように熱も怒りも加速する。
「そうやって勝手に状況を作り上げて私を丸め込もうとしたんでしょ。なんでもかんでも私が頷くとでも思った?あんたみたいな人間の言葉で左右されるほど、私は意思のない人間じゃないんだけど」
佑李の心を確実にえぐれる言葉を選んで探していた。
バカとか嫌いとかよりも攻撃力の高い言葉じゃないと、佑李には刺さらない。
どれだけ、今の私が嫌な思いをしているか。
自分の歌を侮辱された気分にされたのがどれほど苦痛か。
それでも佑李には分からないだろうなって諦めも込めて赫怒する。
佑李は何も言わない。
何を考えてるの。
何か言ってよ。
反論しなよ。
「佑李のこと、信じてたのに」
小さくかすれて、闇の中に消え失せた私の声。
一度も顔を上げなかった佑李は肩で息をして首を持ち上げる。
その佑李の顔は、予想よりずっと深刻だった。
きっと受け止めきれないだろう量の言葉を全部受け止めたから。
顔に、切り裂かれたような線が見えるぐらいに傷ついていた。
暴れ出しそうなほど不快感でいっぱいだった私の心が、破裂寸前なところで止まる。
その代わりにヒヤリと冷たい水を流し込まれたように嫌な感覚が襲う。
……きっと私、必要以上に傷つけた。
佑李のひどく消沈した顔は予想以上にコタえた。
いつものらりくらり、かわすじゃん。
何にも届いてないような表情見せるじゃん。
なのになんで……今に限ってそんなに死にそうな顔してるの。
足を後ろに引く。
佑李は一歩も近付いてこない。
私が傷つけたのに、怖くなって……でも佑李の方が悪いという気もしてきて、考えるのが気持ち悪い。
走って逃げ出した。
投げた言葉が全部自分に返ってくる。自分の口から出た刃物は私を全身切りつける。
やっぱり結局自分が憎い。
とうとう涙が溢れて風が涙を吹き散らしていく。
残った涙のあとは、残るのが悔しくて手で思いっきりこすった。
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