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寝たら大抵の感情はリセットできるはずなのに、もう二日も引きずっている感情は劣化したようにどす黒い。 こびりついた炭のように剥がれなかった。 これ以上考えたって、もう何も新しいことは生まれない。 分かってる。分かってる。分かってるけど……ずっと無駄なことを考えてしまう。 時計の日付は日曜の午前十一時を指している。 もういっぱい佑李のことは恨んだし、いっぱい泣いた。佑李にした分の痛みも十分受けた。 なのにまだ感情を引きずっている。 意味もなく、ベッドの家で横になっていた気だるげな体を起こした。 無理やり起き上がって洗面所で顔を洗って鏡を見たら、泣き腫らしたひどい顔。 昨日は一日中泣いていた。よくもこんなに涙が溢れてくるもんだと感心するほどに泣いた。 もう一度水をばしゃりと顔で浴びる。 顔面に張り付く水が滴り、髪の生え際が濡れる。 今さらだけど目のあたりを冷たいタオルで冷やして、人のいないリビングへ降りる。 胸の中ではまだ様々な感情が渦巻いていて気分が悪い。 ひとつ深呼吸をして自分の気持ちを確かめようとするけど、うまくまとまらない。 用意されていたフレンチトーストを食みながら、カレンダーが目に入った。 今日は日曜日。ライブをする日だ。 でもこんな状態で、それも佑李が原因でこうなっているのに、どうして佑李のために歌いにいかなくちゃいけないの、と憤りを覚える。 それにきっと佑李だって来ないだろう。 あんなことしておいて、私にあんなにボロッボロに言われて。 そう思う反面で、真逆の可能性も考えられる。 佑李なら、私が来るまでずっと公園で待つ気がする。あの子ならやりかねない。 昨日のことがあるから、そんな佑李の姿を想像すると胸がいたむ。 行ってあげたほうがいいんじゃないかと心が揺れる。 でも思いっきり咀嚼して邪念を吹き飛ばした。 ううん。私は行かない。行ってやらない。 牛乳を煽って甘さを流し込む。 なんにも考えないように、ただひたすらに口にモノを運ぶ。 早く時間が過ぎて夜になってしまえばいいのに……。 だけど勝手に頭は佑李のことを考えだす。 あの公園で、佑李の前で歌っている自分の姿を想像してみる。 私はどんな感情で歌えばいい?聴いている時、佑李はどんな顔をしている? 想像すればするほど思考は悪い方へ進んでいって、みるみる心は赫くなり苛立ちを覚える。 私はまだ怒っている。佑李のためになんて歌えないし歌わない。 長いこと咀嚼していたフレンチトーストを飲み込む。 ぐしゃぐしゃになって甘みも感じなくなったフレンチトースト。 手に取ったコップに牛乳の白い線がほとんどない。 立ち上がって冷蔵庫を勢いよく開けてコップにドバドバと勢いよく牛乳を注いでいく。 あまりに勢いがよくて、跳ねた牛乳が服に白いシミをつくった。 「あっ」 元気付けようとする自分の行動が空回りする。 ……何をしていても、いつまで経っても気持ちが落ち着かない。 考えないようにすればするほど忘れようとしている感情がまとわりつく。 もう佑李のことはいい。私は歌わない。それでいいから、もう忘れたい。 部屋に戻って新しい服に着替えて、何気ない生活の一部を送ることでそれに没頭しようとした。 でもそれが余計に、考えることを考えないように意識していることを、嫌ってほど認識させられる。 あぁ、ずっと気持ち悪い——。 残していたフレンチトーストはラップをして冷蔵庫にしまう。 牛乳だけ一気飲みして、流しの台にコト、と小さく音を立てて置く。 ……今日じゃなかったら?という考えが浮かんだ。 歌わないって決めてるのに、佑李のためなんて歌いたくないって思っているのに、今日が嫌なら明日は、って考える。 もし今日が終われば、また明日から歌えるようになるのかな。 ——そんな気が、全くしない。  *** 時計は午後三時を指している。 窓の外から小さな子供の高い声が通り過ぎていく。 その声を聞き流しながら、頭では佑李の姿が浮かぶ。 腹が立ってしょうがないのに、佑李のことを考えていないと逆に落ち着かない。 時計の秒針が一周した。もう三時一分。 まだ公園で待っていることが容易に想像できてしまうのが、余計に私の心を焦らせる。 いや、行かない。行かないから。 そう心の中で呟くたびに、心の中で層が増えるように本心が隠れていく気がする。 何度振り向いたか分からない窓をもう一度振り返る。 本当にこのまま一日を終えてしまいそうだ。 いや、それでいいはずなのに。 感情は落ち着かなくて心がそわそわしている。 そわそわなんてもんじゃない。ぶくぶく泡立つような感情が、まとまって膨らんでいく。 ベッドの上で何度も深呼吸をした。 先走る気持ちの通りに行動したっていいことは何一つない。だから、一旦落ち着け。 言い聞かせる言葉を押し除けて、動き出そうとする体。 「……ああっ」 とうとう助けを求めるような声が出た。 嫌だ。行きたくない。ここで歌いにいったら、なんだか私の負けのような気がするんだ。 佑李が勝手に動画を流したことを、私は全く許していない。 それなのに、のこのこ私が歌いにいくのはなんだか違う気がして。 ベッドの上で無意味に正座する。 目を閉じて、他のことは考えないようにする。 なんでここまでしなきゃ落ち着けないんだろうって、自分でも思う。 私は佑李に嫌な思いをされてまで歌いにいきたいの? 自分の気持ちが分からない。 佑李が嬉しそうに言っていた、『日曜は推しのライブだ』って言葉が勝手に脳裏で再生される。 何よ、推しって。 推されるのって、こんなに複雑な感情を抱えなきいけないの? 私はただ、佑李にもっと私の気落ちを考えて欲しかった。 推しっていうなら、私の気持ちを推し測って欲しかった。 ゆっくりと自分の本心を確かめるように目を開ける。 元々は、佑李が勝手に始めたライブの企画。 私は突飛な佑李の考えに付き合わされただけ。 無理して行く意味なんてない。無理して歌う意味なんてない。 そう考えて胸がドクッと脈打った。 なんだか今、私、歌わないことを佑李のせいにしていた気がする。 そもそも私、なんで歌い始めたんだっけ。 歌っている時は大体、私の中で感情が溢れ出しそうになった時だ。 それは悲しい時だけじゃない。 嬉しかったこと、弾けそうなほど心が高揚したこと、嬉しい気持ちも溢れ出しながら一緒に歌ってきた。 怒りの感情も、明るい気持ちも全て音になる。 わずかな呼吸の仕方、強弱の付け方で、なんにでもどんな音にもなってくれる。 歌は感情を全て表してくれるから、私は自分の気持ちを歌に乗せてきた。 そしてこれまで、一度として誰かに強制されて歌ったことはなかった。 それは私の歌じゃないから。 私の歌は、歌いたくてしょうがない時に抑えられないような衝動を伴う。 そうだ。抑えられない。 今きっと…………私は歌いたいんだ。 まとわりついていた黒いモヤが一気に霧散したような気がした。 私はいつの間にか、自分のためじゃなくて聴いている人のことを考えていた。 佑李のためとか、佑李に負けるからとか、そんな気持ちで歌いたいんじゃない。誰かが聴いてくれるから歌うんじゃない。 溢れ出しそうな心の感情を吐き出して、自分を解りたいから歌ってきた。 ベッドから飛び降りる。心はもう迷わなかった。 佑李と喧嘩したからってやけになってた。一番大事なことを忘れていた。 自分の心のままに歌わないと、それは私の歌じゃない。 そうだ。 私が歌い始めたのは、心の中の感情を発散したいから。自分の中の感情を確かめたいから。 嬉しいことも悲しいことも、一人じゃ抱えられないような重い感情も、歌に乗せて放ってきた。 そして私の歌は……いつでも自分のためにある。 私は、誰かを喜ばせるために歌ってきたんじゃない。 自分自身のために歌ってきたんだ。
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