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⑥
公園に向かう足取りは、迷いが消えてすごく軽やかだった。
意地張って歌いたい気持ちを無視している方が、動画のことや佑李のことを考えるよりもずっと酷だった。
今から私が歌おうとする時に佑李がいようがいなかろうが、そんなことは影響しない。
歌うことを決めた、今の自分が全てだ。
公園に着いてまず目に入ったのは、ブランコに座る佑李の姿。
ベンチのように腰掛けたまま気持ち程度にゆらゆら力なく揺れている。
やっぱり待っていた。
入り口に足を踏み入れたあたりで立ち止まった私に、佑李はすぐに気が付いた。
「え……」
ここにいるってことは待っていたはずなのに、私が来たことに対して驚いたような顔。ブランコから飛び降りる。
すぐに駆け出してきて、二メートルほどの距離をとって立ち止まった。
まだ明るい時間帯なのに日が暮れたような静寂の空気。
無言で向かい合う私たちに、鳥すら遠慮して鳴くのを躊躇っているんじゃないかと感じるほど。
軟風に吹かれて私たちの髪が揺れる。
私は何か言うか迷って……何も言わずに目線を逸らして歩いた。
足を止めたのはいつもの定位置。
いまだ佇んでいる佑李に背を向ける形で呼吸を整える。
早速歌い出そうとするけど……このままじゃ違うことに思考がとられてしまってちゃんと歌えない。
私は公園の入り口を正面に立った。
私に背を向けて、いつもよりずっと小さく見える佑李の姿。
「佑李」
投げかけた声は、いつもの私の声よりずっと強く響いた。
小さく肩を跳ねて首を回した佑李は迷うように視線を揺らす。
「佑李」
もう一度声を発する。
私の声に反応して佑李の目が見開かれる。それを確認して、私は顔に感情をこぼした。
「今から私は自分のためだけに歌うけど……おまけに、佑李にも聞かせてあげる」
ほんのおまけ程度だ。
音もなく、佑李は息を呑む。
空白に向かって宣言しているような気分だった。
佑李は首の向きだけを動かすもそこから動かない。小さな体は地面の上で力なく立っている。
黒い瞳が小さく揺れる。
佑李が今にも泣きそうな顔なのは、
吸い込んだ息を止めて考える。吐き出した息は苦笑の吐息も混ざっていた。
——不本意だけど、佑李と一緒にいるせいでのあんたのことが分かってきちゃったんだよ。
「あんたは仮にも私のファンなんでしょ」
だから歌を聴いてもいいかなんて、迷ってそんな顔しないで。
空気が波を立てたように、私たちの間に流れる空気が変わった。
佑李は遠い位置から目を見開いて固まっている。
意表を突かれた、って感じの佑李の表情。
今、私は完全に佑李の想像の上をいったわけだ。
なぜかめちゃくちゃ勝ち誇った顔で見下ろしてしまう。
「もっと前で聴けば?ライブでしょ?あんたしかファンいないんだし、最前列空いてるんだけど」
精一杯の私のジョークだった。
私は、佑李のために歌いにきたんじゃない。
でも今ここに、佑李はいる。
「……うん」
ちゃんと伝わったみたいで、佑李はほんの少しだけ微笑んで頷いた。
私の前に静かに歩いてくる。
目を閉じる前に私は佑李をひたと見つめた。
佑李が大きく息を吸い込んだ弾みにタッセルが翻ったのを見て目を瞑る。
他の誰のためでもない。
既にいっぱいだった心の中に深く新しい空気を入れ込む。
新鮮な空気はとめどなく入っていって、古い感情と交換されていく。
私が、私のためだけに歌うんだ。
一音発声する。
空気に私の声が震える。
あまりに鮮明に響くから、畏れてしまった。
でもここでやめない。私をがんじがらめているものを全て吐き出すまで帰らない。
そういう覚悟でここまで来た。
目の前に佑李の気配。
口がメロディーを奏でる。
目を瞑って歌を歌うと……急に今まで悩んでいたことがちっぽけに感じた。
どんな感情も、歌いたいという気持ちの前では無力だ。
私が私を構成するもの。もう誰にも邪魔させないから。
心が辛くなった時によく聴く、大好きな洋楽の歌詞を口ずさむ。
目を瞑っていると、余計なものに気が散らない。
自分自身と正しく向き合っている感覚になる。
心の全てを、解き放て。
時間なんて気にならないほど、自分の声だけに集中していた。
うすら目を開けたら、あたりは夕方の景色で遠くで太陽が沈んでいくのが見える。
入相の鐘が鳴った。
太陽の周りの神々しい橙色に、高いところから薄紫色の空がおりてきている。
目を開けたら変わらない位置に、佑李は変わらず居た。
ただ先ほどと違うところを挙げるとすれば、佑李の瞳はこれ以上ないぐらいに強い光に満ちていること。
私の歌をちゃんと聴いていたって分かる。
「佑李。こっちきて」
小さく肩を震わせた佑李は上目遣いで見上げてくる。
もう……いつもの生意気な態度から一変されると調子狂うな。
頭をかいて、もう一度「佑李」と呼ぶ。
佑李は本当にらしくない感じで目を彷徨わせ、オドオドしながら近付いてくる。
「殴ったりしないから早くこっち来て」
近付いてくるごとに、避けていた心の距離まで戻ってくる。
いつもの距離、目の前に来られた時にはもう私は佑李への怒りは忘れていた。
「私の歌、聴いてたでしょ?どうだった?」
佑李は唇を引き結んでいた。何も余計なことをこぼさないようにしていたみたいな口元が緩む。
「……鳥肌がたった。人の歌を聴いて鳥肌が立ったのなんて初めて。それぐらい、実子の本気は凄かった。圧倒された」
いつもみたいな捲し立てる言葉じゃなくて、大事に一つずつ紡がれているのが分かる言葉だった。
「そっか」
私は佑李の頭をなでた。佑李は驚きに体を硬直させている。
私を見上げる目までまんまるで、顔が緊張からか赤くなっている。
なんだか面白くなってしまって吹き出した。
「なに。いつもみたいに調子のいいこと言いなさいよ。私の歌、良かったんでしょ?」
佑李はらしくない様子で狼狽えたのち、無言で首を縦にふる。
私は呼吸を吐きながら笑む。
「あーやっとスッキリした。やっぱり歌うのは楽しいね」
ぐーっと腕を伸ばして、息を吐いたらすごく心地が良かった。
「実子……ごめ、」
「まだ聞かない」
私は佑李の口を手で押さえた。
佑李は目を白黒させる。
「こんな適当に聞くもんじゃないと思うから」
佑李が黙ったのを確認して、私は手を離す。
不安げに小さくなる佑李の目。目は口ほどにものを言うって、本当だな。
あの口達者な佑李が目線だけを動かして黙っている。
「座って話そう。ほら、もういつもの調子に戻って。いつまでもそんな態度演じてるの?」
「……うん」
すぐに萎えた様子をみせる佑李。
少し、意地悪しすぎたかな。
佑李の顔を両手で持ち上げてグッと顔を近付ける。
「み……実子?」
「シャンとして。いつもの生意気で、腹立つぐらい饒舌で小憎たらしいあんたに戻って」
真剣に佑李を見据える。今度こそ、佑李は目を丸くした。
「み…………」
佑李は勢いづけて逆に私の頬を持ち上げた。
突然のことに今度は私が驚く。
「——なに頬なんて持ち上げて!そんなに僕のほっぺが柔らかそうだった?実子の方こそだよ」
むにむにと小さな手を動かされて、ぶわっと毛が逆立つ。
「そ、そこまでする必要ないでしょ!」
元気付けようとしていた手を離して距離を取り、目線を逸らしてベンチに向かう。
佑李の距離感ってほんとに分からない……。
まだ頬に佑李の熱が残っていて落ち着かない。
ちょこちょこ付いてきた佑李は、隣からにぃっと笑いかけてくる。
久しぶりに見たその表情に、イラっとするとともにホッとしてしまう。
ややこしい感情だな。
そこで思い出したようにベンチに駆け寄り、置いてあった小さなカバンから物を取り出した。
「なにそれ。保冷バッグ?」
「うん。実子に差し入れ。推しのライブで差し入れなしは失礼だと思ってさ」
「変なとこ律儀だね」
佑李はクスッと笑う。雰囲気が戻ってきて、安心している自分がいる。
生意気な佑李と小さな子供みたいな佑李、どっちも迷惑だけどどっちも放っておけない。
ほんと手がかかる後輩だよなぁ……。
佑李が私に差し出したのは、寒色で彩られたグラデーションのパッケージが綺麗なサイダー缶だった。
「実子、何が好きなのか分からないからとりあえず炭酸。飲めるよね?」
私は受け取り難くて手を差し出したまま固まった。
佑李が眉を跳ねる。
「……まさか飲めない?」
「……飲めない」
互いに見つめあったまま固まる。
その一瞬後に揃って吹き出した。
「「あはははっ」」
***
「まさか持ってきた唯一の差し入れが受け取り拒否なんてなぁ」
「いや、唯一の差し入れにサイダー缶持ってくる方がおかしいでしょ」
いつの間にか、普段通りに話し始めていた。
コンビニで色々買い足したお菓子やらジュースやらを、二人で飲み食い。
佑李は私のために買ってきたサイダーを結局自分で飲むことになり、私は自分でジュースを買った。
狭いベンチの真ん中にお菓子を広げてつまんで、佑李曰く『打ち上げ』だそう。
いつも口を開けば私の歌のことを喋っていた佑李だけど、今日は自分のこともよく話してくれた。
「へぇ。佑李ってパソコン部だったんだ。委員会は?」
「図書委員。仕事なくて楽なんだよね」
どっちも控えめな役職で、なんだか意外だった。
佑李は話の最中、ずっと謝る機会を伺っているようだった。
だけどそれを私がかわす。
……もう良い。怒ってるんじゃなくて、これ以上謝られてどうしようもないから。
佑李が本当に反省しているのは態度からよく分かった。あれは絶対に演技なんかじゃない。
私もずっと言いすぎてたし、これでチャラ。
なんだか自分勝手な気もするけど、散々好き勝手やってきたんだからこれぐらい許してよね。
言葉にしはしないけどそう思いながら、最後のクッキーをつまむ。
「あ、ラスト取られた!」
「ゲット」
私はニヤリと笑って口に入れる。
佑李は不服そうな顔でサイダーを手で掴む。
「でも佑李って、その無駄に明るい性格からして友達多いんでしょ?委員会はともかく部活は運動部入ればいいのに」
チョコクッキーを咀嚼ながら佑李を一瞥した。
他の委員会ならまだしも、図書委員は日替わりで図書館にいなきゃいけない。
休み時間は校庭とかで走り回ってそうなのに。
そこまで考えて、ハタと思い当たる。そういえば前に佑李と図書館で遭遇した時、佑李は休み時間は大体図書館にいるって言っていた。
嘘だと思ってたけど……それって本当だった?
佑李を見ると、なぜか飲もうとしていたサイダーを置いていた。
「……音に、敏感だからさ」
「え?」
音に敏感?
どういう意味か聞こうと思う前に、佑李が自分の耳元の髪の毛を持ち上げた。
いつも髪で隠れて見えなくなっていた耳があらわになる。
佑李の耳には耳たぶを覆うように白いフックが付いていた。
明らかに、普通のものじゃないことが分かる。
妙に心臓がヒヤリとする。
そしてフックの下の方には、白い無機質なイヤホンとタッセルがぶら下がっていた。
——タッセル。いつも佑李の耳から見えていたものだ。
黙ってしまった私を見て、佑李がふわりと笑う。
「これね、僕がいつも付けてるイヤホン。これをしないと、音が聞こえすぎるの」
佑李は言いながら外れていたイヤホンを耳に突っ込む。
かけていた髪を垂らしたら、いつも見えていたタッセルは見えなくなった。
イヤホンをしないと聞こえすぎている……?
佑李の言っている意味がよく分からなかったけど、話のペースを邪魔しちゃいけないと思った。
佑李はタッセルがついているだろう部分を手で触れながら、視線を地面に向ける。
「聞いてほしいことがあるんだけど……聞いてくれる?」
私は頷いた。
すっかり空は藍色に包まれて、もうすぐ夜が来る。
半分欠けた月が煌々と光る夕月夜。
佑李はイヤホンを外す。カサ、と音を立ててタッセルは揺れる。
そうして佑李は話してくれた。
どうして私のことを知っていたのか。
どうしてそこまで私の歌を好きって言ってくれるのか、その訳を。
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