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——世の中に溢れる騒音は、僕にとって激しく不快だった。 聴覚が異常に敏感な僕は、耳に入るすべての音がオーバーに感じてしまう。 紙のこすれる音や些細な音まで拾ってしまうから、静寂という瞬間が一瞬たりとも訪れなかった。 だから僕はいつもイヤホンをしている。 これをすることで、ほんのちょっとだけ聞こえる音が柔らかくなる。 柔らかくなると人の声が鮮明には聞こえなくなるけど、常に工事現場みたいな騒音の中にいるよりは全然マシだった。 人の話に適当に相槌を打って、ニコニコ笑って話していれば、多少会話が噛み合わなくたって人から嫌われない。 そんな毎日を過ごす日々に疲れないはずがないけど、自分の保身のためにこうするしかなかった。 そんなある夜、公園を通りかかったら一人の女の子がいた。 こんな時間に人影があることは珍しかったけど、気にせずそのまま通り過ぎるつもりだった。 でも道路を背を向けていた女の子は肩を細かに上下させていて、最初は何をしているのか分からなくて。 気になって耳を傾けたら……歌が聴こえたんだ。 その歌声は一瞬で僕の耳を覆って捉えた。 ——まとう音が、違った。 透明感のある歌ってこのことを言うんだなって、直感的に思った。 一音一音はハッキリしてるのに流れるような流暢さもあって、それでいて主張が激しくない。 控えめながらもスッと耳に入り込んでくる迫力があった。 隠れるように聴いていたけど、彼女は背を向けていて僕に気付いてない。 僕は生まれて初めて、世の中に溢れる音を聴くために自分からイヤホンを下ろした。 全ての音が入り込んでくる世界の中で、彼女の歌はより鮮明になって僕の耳に飛び込んでくる。 イヤホンをしていないのに、いつも感じていた不快感が感じられなかった。彼女の歌が周りの音を全て吸収したみたいだった。 ……こんなの初めてだ。 今までどんな雑音も耳が拾ってしまうから自分の耳が嫌いだった。 イヤホンで世界を遮断して、余計なものを聞かないようにしてきた。 だけど彼女の歌だけは違った。 もっと聴いていたい。もっと聴きたい。 スマホを取り出して録画ボタンを押す。こういうの……盗撮っていうんだっけ。 でも、歌い終わった後に彼女に録画しちゃったことを説明して、許可してもらえればいい。 すぐに思考を落ち着かせて、歌に集中する。 だけどその日の夜、僕は声をかける勇気が出ずに帰ったことを後悔する羽目になった。 もう二度と出会えないかもしれない……。 それから家の窓から公園を見るようになった。 彼女の顔すら見ていなかったのに、しばらく夜になると窓の外から彼女のことを探した。 そしてそれから一週間後、不意に目がある後ろ姿に吸い寄せられた。 道路に背を向け、肩を小刻みに上下させて、まるで口ずさんでいるような、歌を歌っているような……。 家を飛び出して公園に向かった。 そこでまた出会えたんだ。 透き通るような彼女の歌声。心臓の鼓動が嬉しさで速くなる。 いつまでも聴いていたいと思えるようなバラエティに富んだ選曲。 邦楽も洋楽も、アニメの歌も流行りの歌もなんでも歌ってる。 胸がドキドキと高鳴るのは、初めての感覚だった。 今日こそちゃんと話して、名前を聞こうと思っていた。だけどまた怖気付いてチャンスを逃してしまった。 それなのに、次の日図書館に行って驚愕する羽目になる。 昨日歌っていた彼女が……いる。幻覚じゃない。そこに座っている。 後ろ姿しか見たことがなかったのに、なぜか昨日の少女だと直感で分かった。 いつも後ろ姿でしか捉えることのできなかった姿を、初めて正面から見た。 伏し目で本を読んでいた彼女は、ポニーテールで清楚な印象。姿勢が良くて手で本をめくる動きすら絵になる静かな少女。 まず、同じ制服を着ていることに驚いた。 同い年ではない。僕よりずっと背が高いから、年上? この出会いは運命じゃなくて必然だと胸が震えた。 それに、こんなに静かな印象をもたらす女の子が人の心を揺さぶるような歌を歌っているなんて。 その子が、同級生の女の子から『みこ』と呼ばれているのを聞いた。 みこ——。 同じ委員会の先輩に、「みこって女の子はいますか」って聞いてみた。 そしたらその先輩は「工藤実子って女子がいる」と教えてくれた。 外見の印象とも一致する。 あの少女は、工藤実子って言うんだ——。 後ろ姿だけの情報から、名前まで知ることができた。 それで良かった。 声をかけられないのは、僕が声をかけることで実子が歌を歌わなくなってしまうことを恐れていたから。 毎週水曜日、あの公園で歌ってる。 実子と僕だけがこの世界にいるみたいだった。 それを頼りにコソコソ物陰で聴く……というのを何回か繰り返した。 でも、どうしても歌の感想を実子に伝えたくて。 声をかけたい衝動に駆られていたけど、でも向こうからしたら僕は赤の他人だということは重々承知しているつもりだった。 抑えきれないほどの感動と、この気持ちを伝えたい抑えられない感情。 最近は家に帰ってもスマホであの日勝手に撮影した実子の歌を聴いている。 毎日が彩るようになった。実子と実子の歌のことをずっと考えている。 友達がアイドルを推しているのと同じ状況だった。 つまり——今の僕は、ファン。 そこで思いついた。かなり奇怪なアイデアだった。 でもこの方法だったらきっと上手くいく……そんな予感が僕の中にあった。 実子に、僕の推しになってもらう。 そしたら僕はファンという立ち位置で実子の側にいられる……って。 ただ一つ、怖がられないかが心配だった。 だったら小さな子供を演じればいいんだ。ニコニコ笑顔で相槌を打つのに慣れていた僕は、可愛げを残した自分の演じ方が上手かった。 僕が嫌われたって、実子が歌うのをやめなければ問題ない。ただ彼女の歌を聴いていたいだけだ。 あの日、そんな思いで思わず声をかけた——。 「僕には、世の中のすべての音が雑音に聞こえるの」 語り出した僕を、実子は静かに聞いてくれている。 すぐ側の実子の呼吸音が耳に入り込んできた。 イヤホンをするかどうか迷ったけど、イヤホンをしたら自分の声ですら水の中にいるみたいに聞こえてしまう。 これから自分がつむぐ言葉を、ちゃんと実子に伝えたい。 地面でカサカサと音を立てて葉が転がっていく。 「いつもこのイヤホン型の耳栓で音を遮断していたんだけど……」 タッセルを耳で触った。 糸が絡み合う音が近距離で響く。 「このイヤホンは、いらない音をシャットダウンしてくれるけど、必要な音も聞こえなくしちゃうの。どっちを取るか考えたら……僕は聞こえない方をとった」 実子の顔色がサッと暗くなったのがわかる。 隣から聞こえる一定の呼吸音。僕の話を静かに聞いてくれている。 それが嬉しくて、苦笑した。 「でも実子の歌はそんな垣根をひょいって超えてきた。びっくりして、しばらく実子の歌が頭から離れなかったぐらい」 あはっと笑った自分の声がやけに大きく響いた。 実子が息を呑む音。 「佑李」 マイクでも通したみたいに、実子の声が大きく耳に響いた。 顔を向けたらぎゅっと手を握られた。 突然手を掴まれて、きゅっと体温が上がっていくのが分かった。 トットットッ……と細かく鼓動が鳴る。 うるさい、僕の鼓動。せっかくの実子の声が聞こえないだろ……。 「私、佑李に言ってなかったよね。私が歌を歌っているのは、」 「待って」 言葉を遮った僕を、実子は目を丸くして見据えてくる。 ずっと分からなかったけど、今の実子の歌を聴いて分かった。 「僕この前、実子がなんのために歌ってるのか聞いた時に実子が口籠った理由がわかった。それに実子が歌う理由も」 実子はじっと僕と向き合ったまま頷く。 喋る前に、ふっと自分の口から息がもれ出る音が響いた。 「実子にとって、歌は実子の全てなんだよね」 実子は歌手じゃない。アイドルでもない。 だから、聴いてくれる人を前提に歌ってないってことに気が付いた。 それは誰に影響されるまでもなくて、自分が歌いたいから歌ってるんだって。 「実子は、人に歌を聞かれるのがすごく嫌だった?だとしたら僕はすごく失礼なことをしてたよね。……ごめんなさい」 やっと謝れた。 僕は心の黒い塊が少し剥がれるのを感じる。 実子を推しにしたのは、僕の勝手だった。実子の歌を聴きたいって一心で、後ろをつけ回っていた。 自分が嫌われても良いからって思ってたけど、実子の気持ちを全く考えてなかった。 ずっと自分のことだけ考えていたんだ。ずっとずっと。 罪悪感で胸が引きちぎれそうだった。 実子はしばらくなにも言わず、身じろぐ気配もなかった。 でも言葉はちゃんと伝わってる。イヤホンをしていないから、自分の言葉がより鮮明に自分の心に刺さった。 「うん。確かに、最初は勝手に聴かれるのがすごく嫌だった」 実子はありのままの意見をくれる。 僕は自分の非を認めるように、言葉を噛み締めながら頷く。 「それに佑李が初めて私の歌を聴いてくれた人だったの。ほんとに最初は嫌だったけど……」 ふふっと声を出して実子が笑った。 なんで今笑ったのか分からなくて実子のことを凝視する。 実子はここ最近で一番嬉しそう。え、なんで? 「だけど、佑李の前でなら歌えちゃうみたい。なんでだろ」 実子が照れ笑いでこっちを見た。 今は感覚が敏感になっているから、音でも目でもなんでも大きく感じ取ってしまった。 ……今が夜の暗がりの中でよかった。 とくんと心臓が跳ねるとともに、可愛い——って、そう思ってしまった。 勢いのままガバッと実子の手を両手で掴む。実子の手が硬くなった。 「それは、僕が実子のファンだから。ファンは推しのためならなんでもできるんだよ!」 そう、ファンは推しのためならなんでもできちゃう。 だから今の僕は実子の心を考えることができる。 「僕は実子の歌のファンだ。実子が自分のことを歌が全てだと思ってるなら、それってもう丸ごと実子のファンってこといいんだよね?」 なんだか思考がいい方向に落ち着いてくれた。 にっこりと心から笑うと、実子は真っ赤な顔になってバッと距離をとった。 視線を外し、「なによ丸ごと私のファンって」とぶつぶつ呟いている。 その小声もイヤホンをしていないから、全部聞こえてるんだけどね。 実子をニコニコと微笑んで眺める。 「ちょっと佑李聞いてる?」 「えー?よく聞こえなーい」 「耳は良すぎるぐらい聞こえが良いんでしょうが!」 実子の大声が、イヤホンをしていない直の耳に轟いた。 一瞬顔をしかめてしまって、ヤバッとイヤホンを付ける。 空気中にうごめいていた音たちがきゅっと静かになって、代わりにすべての音が一段階聞こえにくくなる。 実子はハッと口を手で押さえて「ごめん」と言ったようだった。 「あー……ほんとに気にしないで。こうなるのが分かってて、今まで言わなかっただけだから」 余計な気は遣わせたくないし、なるべく普通を装おって生活していたい。 僕の耳の都合で実子に気を遣わせてしまったことが申し訳なくて、無意味にお菓子の袋を片付け出す。 実子もそれを手伝いながら……突然言ったんだ。 「……私の歌は、イヤホンなしで聴けるんだよね?」 実子の声は小さい。なんとか聞き取れて、「そうだよ」と返した。 「なら、私は佑李の前で歌ってあげる」 ……今のって、幻聴? 僕は笑みを浮かべていた顔のまま、実子を見上げてフリーズ。 イヤホンをしていて聞こえずらかったのを激しく後悔した。 耳からイヤホンを外そうとするが、実子に手で制される。 その瞳の色がこれ以上ないほど真剣だった。 「だから……佑李の前では、これからも歌ってあげる。一日だけって約束したけど、そんなこと言われちゃ……。もう好きなだけ、私で推し活しなさいよ」 今度は大きく、はっきりと実子の口から聞けた。 僕の体温がみるみる体温が上昇していく。 体だけじゃなくて心まで熱く嬉しさで燃えたぎる。 「ほんとっ!?今の言葉、ちゃんと聞いたよ!?実子の歌、また聴いていいんだね!」 嬉しすぎて走り回りたい気分だ。 「だからそう言ってるでしょ。あ、でも勘違いしないでね、佑李のために歌うわけじゃないよ。私は自分のために歌うだけで、それを聴いててもいいよってこと」 頬が赤く染まって、ちょっとだけぶっきらぼうになるのは実子が照れている時の癖。 僕は実子の言葉を聞いているようで聞いていなかった。 これからも、実子の歌を聴ける……! それだけがどうしようもなく嬉しく心の中を巡って、本当にどうにかなってしまいそうだ。 「実子、大好き!」 言ってしまってからアッと思った。 だけど実子が顔を完全に背けながらぶつぶつと何か言っているのが救いだった。 その内容は聞き取れないけど、それを聞きとる余裕もないぐらい僕だって顔を下に向けたまま。 冷静になっても、胸の中は嬉しさで興奮している。 一日だけじゃない。これからも、ずっと実子の歌を聴けるんだ……! 一人でほくほくしていると、実子が顔を熱らせたまま立ち上がった。 「あー、眠くなってきた。もう帰ろ」 「うん。帰ろ帰ろ」 僕はぴょんっとベンチから飛び降りて、気付けば真っ暗な景色を見渡す。 「実子、お家まで送るよ」 「え」 道中、実子に「家の場所まで知られたら怖いんだけど」と言われたから「実子だって僕の家もう知ってるしお互い様だよ」となんとか言いくるめて送ることができた。 「なんかごめん。ありがと」 「遅い時間だし、女子を送るのは当然のことだよ」 「私、あんたより年上だけどね……」 頼りにしてなさそうな目線を向けられて、図星だなと返答に迷う。 確かに、ひ弱な僕じゃ実子のことは守り切れないかもしれないけどさぁ。 しばらくして実子が「着いた」と立ち止まった。 僕は別に、家を知ったからって本当にどうこうするつもりはないから早々に立ち去ることにした。 「じゃあね実子」 「佑李も気を付けて」 「うん。ありがと。おやすみー」 手を振って帰ろうとしたけど実子に「あ、」と呼び止められた。 玄関のオレンジ色の灯りの下、実子はニッと笑う。 「飲めなかったけど、私のためにジュース買ってくれてありがと。今度何かお礼するから、何がいいか考えといて」 最後の最後、実子の笑顔に僕の心臓がドクドクと荒れた音を立て出す。 「う……うん」 「おやすみ」 そう言って、扉が閉まった。 あー……。 はにかんで微笑む姿が、僕の心の中に強い記憶として残ってしまった。 夜風がさわさわと髪の毛を揺らす。 こうならないように予防線を張ったのに。それすら超えてくるなんて、ほんと実子って魔性の存在だよね……。 こうなったところでどうしようもないのは分かっている。 だから、僕は実子を推しにした。 友達だったらそれ以上の発展があるかもだけど、推しとファンならこれ以上は何もないから。 勢いづけてぐんぐん足を進める。どんどん実子の家から離れていく。 ——僕は実子の歌を聴ければそれでいいから。
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