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❾
真夏のあっつい日差しは、容赦なく僕を照らす。
でもそれも気にならないぐらい僕の心は熱く燃えていた。
カバンの中を探って、何度も確認したチケットを再度チェックする。
工藤実子東京ライブの文字は、何度見ても僕の心を熱く燃えたぎらせた。
「お会計お願いします」
初めて公園で実子に差し入れした時からもう十数年経って、ロングセラーのこのジュース缶はすっかり値上がりした。
それでもこれを差し入れしなきゃ、僕の推し活は始まらない。
受け取った缶に油性ペンで『がんばって』と書き記す。
実子のマネージャーさんとはもう顔見知りだから、その人にお菓子と一緒に缶を渡しておいた。
「実子によろしくお願いします。いつもありがとうございます」
「全然いいんだけどさ、せっかくなら直接渡したら?工藤は良いって言うと思うし、それぐらい認めてあげられるけど」
思わず、会いにいきたい……と喉まで言葉が出かかったけど、危ないところで飲み込む。
会いに行きたいけど、今ここで会いに行ったら推しとファンの関係が崩れちゃう。
「いえ、大丈夫です。今日も楽しみにしてる、って伝えておいてください」
マネージャーさんは微笑んで「分かった」と、バックヤードにはけていった。
その後ろ姿を見つめながら、心の中で実子にエールを送る。
開場待ちの大行列に並びながら、前の後ろも人でいっぱいの列を振り返った。
僕たちと同年代のファンはもちろん、大人や小学生ぐらいの子たちもいる。
様々な年代のファンに、実子の歌は届いているんだ。
高校を卒業した実子が、自分で決めた道。
自分から進んで「歌手になる」と歩み始めた道。
デビューしてたった三年でこんなにも有名になったのは、ただ『観客に媚びない独自のスタイル』ばかりが好かれたんじゃない。
じゃなかったらこんなにも人は集まらない。
スマホを取り出して、写真フォルダを何回もスクロールして昔の動画を再生する。
接続されたイヤホンに、ノイズが響く。
この後ろ姿じゃ、誰も実子だって分からない。
堂々と人前で昔の実子の歌を聴けるのって、本当に至福だ。
あえて後ろの人が見えるようにスマホを持つ手を見やすい位置で固定しまう。
今の実子はこの時よりももっともっと歌が上手くなってるけど、僕はこの時の実子の歌声も大好きだ。
ようやく列が進んで、僕は会員証を取り出した。
差し出したカードには、『会員番号001』の数字。
実子と二人で作った会員証だ。
背景にはオレンジ色のグラデーション。
僕が行けるライブの時に毎回実子に差し入れているあのジュース缶は、パッケージが変わってデザインが昔とは少し違う。
だからあの缶のデザインがモデルになってるって、きっと誰も気付いてない。
係員の人が会員証の番号を見ると一瞬目を見張って、でもすぐに笑顔になって通してくれる。
「どうぞ」
会場内に一歩足を踏み入れた瞬間に、心が震えるような興奮に駆られた。
既に熱気立つ会場。今まで訪れたどんなホールよりも規模が大きかった。
席の番号は前から二列目。黒い機械で埋め尽くされたステージがものすごく近い。
イヤホンをしている耳がぼんやりと周りの音を離していく。
何回かライブに行くことで、始まる前の騒音の様子がだいぶ分かってきた。
分かるだけで全然慣れないけど、でも始まる前までの辛抱。
僕はただひたすらに始まる刻を待った。
ふっと会場中のライトが一気に消えて、中央に真っ白な光が降りてくる。
観客は割れるような歓声と共に、立ち上がって実子の名前を呼ぶ。
僕だってあまり伸びなかった小さな背で背伸びして、髪の上から耳を塞いで実子の名前を思いっきり叫ぶ。
真っ白な天使のように見える衣装で登場した実子は、観客をぐるっと見渡してすぐに目を瞑った。
それだけで観客は水を打ったように波が引くように静けさを取り戻す。
スタンドマイクを中心に、丸いライトだけが実子を照らす。
その瞬間、僕は耳のイヤホンを外した。タッセルが首のあたりをくすぐる。
マイクを通して実子が吸い込む息の音が大きく響いた。
始まった——。
優しい、子守唄みたいな声。
実子は一曲目をバラードの歌から始めた。
音が反響しやすいこの空間は、これでもかってぐらい実子の歌を鮮明に包み込む。
ここは他のアーティストも使っているすごく広い有名な会場。
今までのライブとは比にならないぐらい音の反響がすごかった。
それはただ単純に大きいだけじゃなくて、実子の息遣いや想いを込めた所が顕著に表れる。
もう既に鳥肌が立って泣きそうだった。
歌い始める実子を観客は誰も歓声で遮らない。
実子の歌は、自分のためだけに歌っている。
ファンもそれを分かっているから、不必要にファンサを求めたり声掛けをしない。
そしてそれは、実子が歌うときだけイヤホンを外す僕にとってもすごく助かる。
一曲目が終わった後、観客は拍手で感想を贈る。
この拍手だって何千人もの人が手を叩いているわけで、ものすごい音だ。
だけどこれすら心地よく感じてしまう。
実子に、たくさんの拍手を届ける人がこんなにいる——。
思いっきり手を叩いた僕は、しばらくして手を止める。
ジンと余韻でうずいていた。そっとイヤホンをする。
拍手の音は途端に小さくなり、次第に波のように引いていく。
暗転してすぐ、実子は二曲目の準備に移った。
その様子を見ながら、ライブに来ると毎回優越感に浸ってしまう事柄を思い出す。
それは実子がステージに立った最初のライブで言っていたこと。
『自分が歌い始めたら、絶対に掛け声も手拍子もしないでほしい』って。
ファンはそれを今もずっと律儀に守っている。
新規のファンも会場の空気を察して声を出さないでくれている。
……たまに思うんだ。実子がそんなこと言ったの、僕のためなんじゃないか……って。
僕の耳は、実子の歌だけは雑音も全てすり抜けて聴こえる。
だから会場が静かにしていてくれれば、僕は実子の歌だけに集中できるんだ。
流石に、自分のことを買い被りすぎてるかな。
実子は実子自身のために歌う。
僕だってただの一部のファンに過ぎない。
でも、実子はアンコールで絶対に歌ってくれる英語のカバー曲、いつも僕のことを探し出して僕の目を見て歌ってくれるのを知ってる。
だから……もうこれは実質、僕のためのライブって思っても良いよね。
次の曲が始まる。実子が息を吸い込む音の長さで、あぁあの曲だって分かる。
僕は、実子が公園で背を向けて歌っていた時から知っている。
僕はかつての無観客ライブの中に混ざり込んだ、ただの後輩で実子のファンだ。
特別なことなんて何もない。
そしてそれはこれからも変わらない。
たくさんの観客が見上げる一人の歌姫。
歌っている実子の姿は表情こそ変わらないが声で分かる。本当に楽しそうだ。
悩んでいた実子を知っているから、実子が選んだ道を進むのが本当に嬉しい。
そしてそれを応援できるのはもっと嬉しい。
目を瞑って歌う実子と、心が繋がる。
耳が人生で一番綺麗な音を拾っている。
僕は今までもこれからもずっと、実子の最初のファンで——実子は僕の『推し』だ。
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