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①
自分の心の中にある感情を、メロディーに乗せて放出する。
誰に聞いてもらうわけでもない。ただ自分の外に出せればそれで良かった。
——なのに。
「僕、あなたを推しにします」
目の前に佇む少年の、現実からかけ離れた提案に、私の日常はまるっきり変わったのだった。
***
午前十一時の中学校って、こんなに静かだったっけ。
いや、さっきから私が黙りこくっているから静かに感じられるだけかもしれない。
穏やかな木漏れ日が窓の外の中庭に降り注ぎ、雀が二羽、小草の中で戯れている。
心地の良い夢みたいな雰囲気だ。
そしてそのまま昨日のことが夢だったら、どんなに良かったか考える。
だけどあれは紛れもない現実だった。
つまり私は今……目の前の現実に向き合わなければならない。
とうとう視線を目の前の少年によこした。
「……つまり、私のことを知っててわざわざあの公園に来たってこと?」
「えへへーっ」
目の前で屈託ない笑みを見せるのは、昨日の夜公園で私に話しかけてきた背の小さな少年。
まるっきり初対面で、突然私を「推しにします」って言ってきた奇妙な少年。
そんな彼が、今、突如目の前に現れた時、この状況が一体どういう意味なのか最初は理解に苦しんだ。
だけど理解してからは早かった。そしてこれ以上ないほど絶望した。
……どうしてこうなった。
ありありと思い出される昨日の出来事——。
「わぁ!素敵な歌声ですね!」
午後八時の人気のない公園にいた私は、背後からの声に振り返った。
闇夜の薄暗い中で目を細めれば、小さな少年の姿。小学生ぐらいの年齢だろうか。
緊張のような鋭い感情が体の中を駆け巡った。
「あ、ありがとう。もう遅いから帰ったほうが良いよ」
歌声を聴かれたことに胸がざわめいていた。
私は手のひらを握り込み、一歩後ろに下がる。
握り込んだはずみに爪が皮膚に突き立った。
街灯が一つしかない小さな公園で、少年の顔がよく見えない。
ただ一つ分かったことは、この少年はこの場から立ち去ろうとしないこと。
暗がりでも分かる。私の顔を見つめてひどく瞳を輝かせていた。
「僕、感動しました。お姉さんの歌すごく好きです」
一歩下がった私との距離を埋めるように、一歩近づいてくる少年。また足を引く。
この子には人見知りというものがないのだろうか。
年下なのをいいことに、勝手にグイグイと近付いてくるのを顔を引きつらせながら目で追う。
「そ、そっか」
自分の顔がみるみる苦笑いになっていくのが分かった。
わざわざ人通りの少ないこの時間を選んで、誰にも聞かれないように細心の注意を払って歌っていたのに。
小さな後悔が胸をついた。
「なんで下がるんですか?もっと歌ってくださいよ」
話の通じない少年は、ぐんぐん近付いてくる。
やめてくれ、本当に勘弁して。
この時間帯は人が全く通らないから、私たちの問答に気付く人はいない。
変な汗が滲み出る。今はとにかく走って逃げ出したかった。
「私、もう行く——」
踵を返そうとした瞬間、少年に手を引かれた。
私は目を丸くして、掴まれた左手に目を落とす。
え。
異性から触れられた手にドキリとするどころか、驚いて固まってしまう。
……これって、アリなの?
思わず世間体を気にして辺りを見回すが、そうだここは誰も通らない。
されるがままの状態で私は閉口する。
華奢な手首は、思いっきり引き離せばすぐに外れそうだった。
でもそれをしなかったのは、あまりにも少年の顔が輝いていたから。
そして——なんだかすごく嫌な予感がした。
「そうだ、僕いいこと思いついた!」
少年は名案を思いついた、と嬉しそうに呟き、笑う。
弾む声で興奮をあらわにする彼。
急に掴んだ手を引き寄せて顔を近付けてくるのを、なんとか首を真横に向けて回避した。
心臓は異常に早く脈打ち、パーソナルスペースが広い私にはもう限界だった。
なんなんだこの子!
チラリと一瞬見えてしまったその顔を、私は忘れない。
それは堕天使を思わせるようで、私にとってとんでもなく不快な笑顔だったからだ。
「僕、あなたを推しにします」
——何度思い返しても、これは現実の出来事だ。
「だってお姉さんいつもあの公園で歌ってるでしょ?」
頭を抱える。まずどうして急にタメ語。
同じ学校の生徒だから敬語をやめたのだろうか。浅はかな思考だ。
少年の顔は見えないが、声からして朗らかに笑っているんだろう。
「……人生最大の誤算だ」
恨めしく呟き、しばらく顔を上げられない。
この少年———名前を神佑李という。そして佑李は私が通う中学校の二年生。つまり、私の後輩だったのだ。
昨日見た時は小学生だと思っていたのに、中学生だった。それも同じ中学校に通っていた!
それだけで悪寒が走るレベルでの怪異なのに、さらに佑李は以前から私のことを知っていたという。
どんなホラー映画よりもホラーだ。失神しそう。
睨むように腕の隙間から佑李を見やる。
背の小さな男子だ。150センチぐらいしかないと思う。
まだ幼さを抜けきれていない童顔と、クリっとした大きな眼。
眉を隠すような重い前髪に、耳下で綺麗に切り揃えられたおかっぱの髪の毛。
現代の座敷童みたいな見た目をしている。
声変わりをしていない高い甘い声がさらに人間離れを加速させているが、正真正銘の人間だ。
そして……耳をすぽっと隠す髪の毛の下にチラリと見えるのは、タッセルの飾り。
なんだ?イヤリング?校則でとやかく制限されているわけではないけど、それにしても古風なデザインだ。
そんな感じでツッコミどころしかないような彼に、昼休みに声をかけられたのだ。
「ねぇ、お姉さん。名前なんて言うの?」
「はぁ?」
教えるわけないじゃん。さっきからずっと先輩に対する敬意がなってない。
それにそろそろ昼休みが終わってしまう。
佑李に呼び止められたせいで、私がなんで一階まで降りてきたのか忘れてしまった。
「教室戻る」
踵を返すと、後ろから「ええー」と感情の乗ってないため息が聞こえた。
「もう行っちゃうの?工藤実子センパイー」
振り返って一気に鳥肌が立つ。知っていたのか私の名前……!
佑李はニタニタと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「毎週水曜日にあの公園で歌ってることまで知ってるのに、名前知らないわけないじゃん」
「あ、あんた……!」
本気で掴みかかりそうになるのを必死に片手で押さえる。
佑李は妖怪なんて生ぬるい表現では足りない、悪魔のように微笑んでいた。
一体どこから私の名前を知った?学校では全く接点はなかったし、私は佑李の存在なんて今初めて知った。
向こうから一方的に認知されていたのが恐ろしく、私はさらに警戒を強める。
「お願いがあるあるんだけどいい?」
「聞くわけないでしょ」
佑李と関わるとロクなことにならない。
即座に否定するが、佑李はおもむろにポケットからスマホを取り出した。
「じゃあ昨日の動画、拡散してもいい?実子の歌、もっと色んな人に聴いてもらいたいし」
顔面が蒼白になった。まさか———録画されていた?
一気に血の気が引く。
本気で佑李のことを睨むと、佑李は真正面から受け取らずに素性が分からない笑顔でかわす。
スマホを奪い取ろうとすると、それを軽々しく避けられた。
「大丈夫。僕のお願いを聞いてくれたら拡散しない。僕だけの秘密にしておく」
表面的な愛らしい笑顔は、一分の隙も狂わない。余裕綽々って感じの態度。
こんなのほぼ強制じゃないか。年下のくせにかなり悪知恵が働くところに嫌悪を感じる。
「…………何?」
腹の底から絞り出した声に、佑李は一瞬だけ……ほんとに一瞬だけ真剣な眼差しになった。
「僕、本当に実子の歌が好きなんだ。だから実子のこと推させてほしい」
すぐにいつもの意図して浮かべているような笑顔に戻り、甘い声で私を見つめてくる。
猫撫で声みたいな、見方を変えればバカにしているような声色。
推すってなんだ。私はアイドルにでもするつもり?
まだ警戒を解かずに、いつでも佑李の手首を掴める位置で歯軋りをする。
だけどさっき初めて見せた真剣な瞳の色。
何かを秘めているような……分からないけど隠しているような感じがした。
でも、だからって私の答えは変わらない。
「よく分からないから遠慮しておきます」
「えぇなんで?実子の歌、素敵だったよ」
「そういうことじゃない。もうこの話は終わり」
背を向けようとするけど、佑李も佑李ですぐに引き下がるような神経の持ち主ではなかった。
ちょこちょこと私の前まで来ては行く手をふさぐ。
「待ってよー。なんで推し活させてくれないのー?」
ニコニコと笑みを浮かべ小動物を連想させる人懐っこさで、わたしの前にぴょこぴょこ顔を覗かせる佑李。
視界に入ると鬱陶しいから、佑李の背丈が低いのをいいことにちょっと視線を上にあげれば佑李の姿は見えなくなる。
ただそんな子供騙しで通用するわけでもなく、佑李はどこで覚えたのかクイっとわたしの顎を引き下げた。
意思に反して佑李の顔を見てしまい、飛び込んできたキュルキュルとした嫌な目を見る羽目になった。
心臓が跳ねる。危険を感じて。
こいつ、いっつも勝手に私のこと勝手に触れやがって……。
めちゃくちゃ怒鳴ってやりたいけど、ここが学校だという現状が私にブレーキをかける。
「ねぇ実子〜」
微笑む笑顔はハタから見れば天使。わたしの目には狙いを定める悪魔にしか見えない。
ダンマリを決め込むが佑李の固い意志は押しても引いても動かない。
顎を掴まれた手を払い、目を瞑って耐える。耐えるしかない。
「実子〜実子〜?」
聞こえないフリ。私に話しかけているのは他人。他人。
「じゃあ、この動画拡散するね?」
「はぁ!?」
ガッと目を開けて手を伸ばすがスマホはひらりかわされる。
なんだこの悪魔。なんてことを言うんだ。
佑李はニヤリと急に年下には見えないような顔色をした。
変わらず微笑んでいるが、目が鋭く光っている。
小動物じゃない。獲物を狙うトンビかライオンだ。
しばし視線と視線がぶつかり合う。
睨む上級生の圧に怯まないこの神経は一体どうなってるんだ。
頑なに動こうとしない佑李。あぁもう授業が始まってしまう———。
「…………分かっ、た」
佑李の目が光り輝く。腹立たしい。
「やったぁー!ありがとう、実子!」
完全に作り笑顔だ。マジでムカつく。
佑李はにっこぉと目尻をあげて瞳を細めて無邪気に笑う。
ただ彼は年下ということもあり、一個上の私は自分をお姉サンだと言い聞かせることで笑顔になれた。
佑李に負けない完璧な作り笑顔だけど。
「わーい!実子の歌、聴けるの楽しみにしてるね!」
佑李の声にハタと凍りついた。
「え」
佑李は自分の話が済んだからかすぐにこの場から去ろうとする。
……佑李の前で、歌う?
動かなくなっていた頭をフル稼働させて言葉の意味を考える。
ちょっ、待って、
「佑李っ!」
ガラにも無い大声で佑李を呼び止めた。
佑李はくるっと振り返り、笑う。
そして大袈裟なぐらいに両手を横に広げた。踊るように回って一周する。
「精一杯、ファンを楽しませてね?」
歯を見せて笑い、走り去っていく。
耳元で揺れるタッセルも一緒に翻しながら。
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