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第5話 新たな決意
そんな二人の会話が聞こえたかのように、玄関に入ると正面に立った茂が怒りの表情をあらわにする。
「どこで何をしとったんじゃ?」
「はい。仕事仲間に誘われて食事に行ってきたんです」
「どうして電話の一つもよこしてこなかったんじゃ。わしが家で待っていることは十分承知しているはずじゃろうが?」
「はあ……」
「ま、いい。履物をぬいで台所に来い」
もしかしたら、この人との二人暮らしも今日が最後になるかもしれない……。
そんなことを思いながらも、言われた通りに台所に向かった汐里。帰ったときから茂がかなり飲んでることは分かっていた。
台所の椅子に座るといきなり、
「どうしてわしの横に座らんのじゃ?」
うつむいたまま顔を上げようとしない汐里。すると腰を上げた茂が汐里の横へと席を替わる。そしてすぐだった。
――立ち上がった汐里は、いくら酔っていたからといって肩を抱かれて初めて決意することができた。
「私、翔ちゃんが帰ってくるまでほかの所で暮らします」
汐里がどこに行くかぐらいは分かっていた。というのも、車の後ろには大きな箱が積まれ、その箱には『ゴムボート』、と茂でも読めるほど大きな字で書かれていたからだ。「車は前庭に置いていきます。見舞いに行くときに必要ですからね。いいですね?」
「汐里ちゃん。信之介と知り合いなのか?」
「全然知りません。ただ翔ちゃんのいとこであって親友だっていうことぐらいしか……」
「信之介は汐里ちゃんのことを知っているのか?」
「知らないと思います……」
「それでも行くのか?」
「行きます」
――その明くる日の早朝。
前もって砂浜に隠していたゴムボートに空気を入れると、汐里は神前島を目指して櫂を漕ぎ出した。
二階の翔太の部屋からそんな様子を双眼鏡で覗いている茂。多少の申しわけなさは感じるものの、今更どうしようもない。だから茂は、
「澄夫さん。本当に出ていきよったわ。あんな島のどこで寝るつもりなんかのう?」
などと話し出したのだが、電話を取ったのは澄夫ではなく、
「茂さん。本当のことなのかい? よくやってくれたよ。これで一歩前進したっていうことじゃないか!」
明らかに妙だ。すると、
「わしもその約束が早く現実のものとなるように頑張っとるんじゃ。妙さんのためにもな……」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。あんたっていう人は本当に優しい人だよ。翔太君が入院したって聞いたけど、本当のことなのかい?」
「ああ。退院するまでには一か月かかるとか言っていたぞ」
「それで出て行った女の人は、翔太君が退院したら戻ってくるのかい?」
「そんなことはひとことも言うてなかったぞ」
「ということは、翔太君が退院したらどこかにアパートでも借りて、二人で暮らすつもりかもしれないね?」
「わしは口にしたことは守る男じゃ。心配せんでええからのう、妙さん……」
電話を切った茂は大きなため息を一つ。次いで、「翔太……」
思わずその名を呼んでいた。
――それに気付いた神前島にいる二人。
「信之介君! ボートが近づいてきているわよ!」
「何か騒がしくなってきたな。海の奥に潜む化け物も日曜日だけではなくて、水曜日にも姿を見せるようになってきたし」
「そうね。この前二人で話してたように、何かとんでもないことが起こりそうな予感がするわ。誰なんだろう?」
「どっちにしても、誰であろうと断るわけにはいかないぞ。ここは俺達の島ではないんだからな」
「そうね。でも、ただの釣り客か何かだったらいいんだけど……」
手を繋いだ二人に向かって真っすぐボートが近づいてくる。
「とりあえず、誰であれ上がってきたら、あれがあるかないか調べなくちゃ」
「それもそうね……」
白浜が遠ざかっていく。その分家並みの向こうまで見渡せてしまう。初めて海の上から眺める浦吉の風景だ。汐里は何度も何度も振り返りながら、それでも櫂を漕ぐ手を緩めようとはしなかった。
――やがて島にたどり着いた汐里。
「どうしたんだい、女の人がこんな所に一人で来るなんて?」
「もしかして、あなた達この島で暮らしているんですか?」
「ま、そんなところだ。ゴムボートの始末は俺がしておくから、とりあえず上がっておいでよ」
「はい、じゃあお言葉に甘えて。ご夫婦なんですか?」
「いや、ついこの前に知り合ったばかりなんだ」
「そうなんですか……」
『ついこの前に知り合ったばかりなんだ……』
そんな二人の会話と嬉しそうな信之介の横顔に、優香は決して女の顔を見ようとはしなかった。
汐里は念のために名前を偽って『飛鳥』と名乗った。するとその不安は的中し、暗くなる寸前に何気なく優香が口ずさんだ歌は、汐里の中の不安を「確信」へと変えた。
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