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第6話 下巻4
【――そんな話をトミから聞きつけた又吉は、落胆する余りにその日から初音と距離を置くようになった。又吉にすればアヤは可愛い妹同然であったからだ。そして、それを感じた初音はその夜、あの男に父親である源左衛門を井戸に突き落とすように命じた。
――季節は変わり、目に映る全てが輝いて見え始めた頃。
アヤがこの屋敷にいたということはすでに忘れ去られ、庄屋であり父親の源左衛門がなぜか失踪したまま帰ってこないことを理由に、初音は又吉と一緒になった。
やっと願う幸せな日々が始まったと思ったのであるが……。
日を追うほどに不信感を募らせていく又吉。
夜になると、妻となった初音が中庭の奥の大きな木に隠れて、シクシクと泣いているのは分かっていた。分かっていたけど婿養子であり、周りの反対を押し切った初音の力で一緒になれた又吉としては、ただのひとことも声を掛けてあげることができなかった。
ましてや、そんなときはいつも夜空に青い月が出ているせいもあって、きっと人には言えない悩み事を月相手に話しているのだろう……。
その程度に思っていたのだが、すぐに始まった現実はそんな又吉の淡い思いを握り潰すかのように、日々不安の色を深めていく。一部の使用人の皮膚に、得体の知れない黒くて細長いものが現れ出したのだ。それは使用人の間で日増しに広がっていった。
このことが初音に知れてしまえば、必ず初音は使用人全員を井戸の中に葬ってしまうに違いない。
又吉は、これ以上の広がりを恐れてフキを呼んで事情を説明したうえで、初音を当分の間預かってくれるように頼み、初音には内緒で、かつて自分が作った地下室にその者達を隔離した。
ひとまず安堵のため息を突いた又吉。あとはあの小さな生き物と思えるものが消え去るのを待つのみ。しかし消え去るどころか……。
――襖の向こうでトミが聞いているとも知らずに、フキが顔色を変えて又吉のもとにやってきたのは、その明くる日の朝早くであった。理由を聞いても詳しいことは言わないが、
『お嬢さんは以前とは変わってしまった』
そんなことを繰り返す。そして、『私の家で預かるわけにはいかない』
『庄屋であるわしの言うことが聞けぬというのか? おい、フキ!』
『又吉。あんた、知っていてやったんだろう? 調子に乗るんじゃないよ!』
と覚悟を決めたかのようにきっぱりと言い放つフキの首筋には、たくさんのそれが……。
仕方なく初音を屋敷の中に入れることにしたのであるが、そっと開けた襖の隙間からそれを見ていたトミは、二人が部屋を去った後、その足で奉行所に駆け込んだ。
『フキはとんでもないことを隠している。これはきっと大騒ぎになるに違いない。ぜひともお調べを……』
すでに疑問は疑問を通り越えて姿を変え、答えを探す余りにどうしたら、とそのための手立てと想像するものに成り代わっている。
というのも、妻となった初音は牢獄に入れている使用人のことについては一切口を挟むことなく、夜ともなれば相変わらず、中庭の大きな木の向こうに隠れてシクシクと泣いているからだ。
もしかしたら、庄屋としての立場を放棄したような父親が帰ってこなくなったのを機に、この俺と一緒になったのを悔いているのかもしれない? しょせん俺はこの屋敷の元使用人だ。俺には分からないいろんなことで悩んでいるのかもしれない……。
当然、又吉は妻となった初音の気性の激しさを知っているから、次第に妻の心を疑い始めるとともに身の危険を感じ始め、その行動の一つ一つを監視するようになっていった。
――遥か向こうから雷鳴が聞こえてくる。
そんな、今にも雨が落ちてきそうなぐらいに空気が湿っぽい真っ暗な夜のこと、又吉は初めてその真意を問うてみようと決意し、そこに向かった。
ただ単に泣いているその理由を知りたかっただけである。夫婦となったのであるからとことん話し合って、できることならその原因を取り除きたいと、当たり前のことを思って何気なくその木の裏を覗いたのであるが、そんな又吉の目に飛び込んできたものは……。
余りのことに又吉は町奉行所に相談に行ったのだが、調べが立て込んでいるからとして相手にしてもらえなかった。
だから、とりあえずその夜は村の宿に泊まることとして、したためた物を宿の者に持たせて屋敷に向かわせ、地下牢に入れた者達を家に帰して硬く門を閉め、そして、代わりに妻と思われる者を牢獄に入れて頑丈に鍵をかけるように命じた。
――誰がそうしろと言ったのかは分かっているが、妻は嫌々ながらもその命に従った。しかし、意外にもその明くる日の夜に現れたのが、顔色一つ変えない器用な又吉であった。
『初音……』
頷きながらも自分の姿を見ても怖がらない又吉のことを、初音の方が不思議に思ったぐらいだ。すると、とんでもない喜びに包み込まれてしまう。自分では笑顔を作っているつもりなのだが……。
又吉は、器用に鍵を外すと手を差し伸ばして我が妻の手を取り、闇夜に紛れて屋敷を抜け出すとやみくもに走った。初音には又吉の心が読めていた。だから、二人してとんでもない所に向かおうとしているのにとても幸せに思えた。
又吉が向かったのは、シンから聞いていた虫の渓谷にある【底なしの谷】だ。なぜそう呼ばれるのか知っているのは友達の間ではシンだけだ。なぜそこを選んだかというと、虫の渓谷に入ってしまえば恐ろしい虫どもに食い殺されてしまうかもしれないが、底なしの谷に落ちてしまえば二度と上がってこれない、とシンに教えてもらっていたからだ。
人の気配らしきものに振り返ってみれば、かなりの数の追ってが迫っている。追ってきているのは役人達に決まっている。あのときは取り合ってもらえなかったけど、その広がりを考えたときに怖いものを感じ、きっとどこかから誰かに見させていたに違いない。かかる事態に至ってからは、庄屋の家に寝泊まりする者が絶えず数人いたからだ。しょせん俺は元使用人。取り合ってもらえなかったのはそれが理由で、案外あの家に関わりを持っている連中が、俺より先に町奉行所に相談を持ちかけていたのかもしれない……。
と思うしかない又吉。
姿は変わってしまったけど、初音は足に怪我をしているために走り方がぎこちない。
次第に縮まる距離。
山道を上り、そして下って平野を抜けるとまた草木の生い茂った山道を上って、次第に奥深くへ。
やがて目指す場所が見えてきた。聞いていた通り虫の大群が食べてしまったのか、その一帯の草木の全てはなくなってしまって地面がむき出しになっている。そして、月明かりはそこから先がストンと落ちて、何もないということを教えてくれている。
二人は手を繋いで走った。
『又吉! お嬢さんをどうするつもりだ?』
その声の主が誰であるかは分からないが、少なくともそう問いかけている者は、その先に何があるかを知っているということだ。
追っ手との距離が離れていく。役人に足の遅いやつがいるはずがない。ということは、あの追っ手の中に屋敷の年寄り連中が紛れ込んでいるということだ。やはり話は抜けていたのだ。でも、あと少し走れば目指す所に着く。全てにケリが付くのだ……。
――さらに離れていく距離。
『私でいいの?』
初音が聞く。
『当たり前じゃないか。おまえ以外に誰がいる』
『本当にいいの?』
又吉は正面を向いたまま、
『同じことを何度も聞くな!』
そう言い放った。
一緒になって以来、初めて又吉に『おまえ』と呼ばれた初音は、『この人となら……』と、自分を諭すように心の中で叫んでいた。またそう考えると、目前に迫っているものの怖さなど微塵も感じない。
どうせこんな体になってしまった自分だ。それに、町奉行所が絡んでいる以上は、もし捕まってしまえば自分も又吉もただでは済まない。又吉と一緒なら死ぬことなど怖くもない。
目前に迫る底なしの谷。
だから二人は決して走りを緩めようとはせず、揃ってそのまま崖の向こうに向かって飛び出した。はずであったのだが、愛する又吉は器用にその直前でピタッと止まってしまった。
『又吉! どうしたの⁉ あなた……』
悲壮な声が谷間に響き渡り、その声が闇に吸い込まれるほどに妻の姿も小さくなっていく。
――やがて追いついた一団の一人、一番小柄な男がこう呟いた。
『化け物め……。これで庄屋の家は滅びる。次に庄屋になるのはわししかいない』
束の間の喜びを味わっていた又吉が、そう口走る男の顔を覗き込むと、その男が顎をしゃくり上げたと同時に後ろ手に縛られたことで、やっとはめられたことに気付く。
又吉はそのまま奉行所に連れて行かれ、自分の妻を殺めた罪で処刑されてしまう。
ポロリと転がった首がこう言った。
『なんでこうなるの?』
それから又吉が物を言うこともなければ、アヤと初音が村に姿を現すこともなかったのだが……】
「首がなくなってしまったのに物が言えるわけがないだろう。死んでいるんだぞ。くくっ……。それに初音は谷底に落ちて死んでしまったし、アヤだってあんな扱いをされてたのではどうなったのか分かったもんじゃない。これが汐里ちゃんのセンスなのか? へぇー、本当に汐里ちゃんが書いたものなのかなぁ……?
――まだこうなる以前に汐里からもらった本を初めて読み終えた翔太は、ベッドに潜り込むとリモコンのボタンを押して電気を消したのであるが、そういえば全部下巻ってなってたな、上巻は? 何か心に残るものに、なかなか寝れずにいた。
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