第4話 待ち受けていたもの

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第4話 待ち受けていたもの

 一方その頃。 「座りなよ、翔ちゃん」  店に入ると早速照明のスイッチを入れた汐里がそう言うのであるが、照明が点いて、しばらくしてから汐里の姿が浮かんでくるのにはもうすっかり慣れてしまっている。入った所とは全然違う場所からいきなり出てくるのに比べれば、まだましというものだ。  たまたまあの交差点で出会ったことで一変してしまったその後。喜びが笑いとなって口からこぼれ出して止まらない。  というのもあの日たまりかねて、 『そんなにおやじのことを悪く言うのなら二度と来るな! 帰ってくれ!』  童顔で小柄な汐里相手にそう怒鳴り上げたのはほかならぬ翔太であり、その日から眠れない夜を数えていたからだ。 「翔ちゃんも来たことだし、今日はやめとこう……」  それも理由の一つであるのだが、両隣から聞こえてくる嫌がらせまがいのカラオケの音量に、またいつもの不安が募り始め、今日は商売はしないことと決めたのだ。  とはいえ、いつまでもつものか? 常連のお客さんも鞍替えをしたのかだんだん来なくなり、売り上げも確実に落ちてきている。こんなはずじゃなかったのに、どうしよう……?  そんなことを考えていると散らかってもいないのに、ついテーブルやら床やらをまた丁寧に掃除してしまう。体が勝手に動いてしまうのだ。縁起とかその(たぐい)とは関係ない自分であったはずなのに。ましてや、汐里に限って神頼みなど……。  久しぶりに汐里の笑顔を見たせいなのか、飲み会に出た疲れからなのかは分からないが、翔太はカウンターに頬杖をついて、もう夢の世界の入口まで行っているみたいだ。  静かに横に座った汐里。翔太の肩にもたれかかるように頭を預けていると、いつの間にかその後を追い掛けるように、翔太と同じ夢の世界に入り込んでいった。  ――一時間ほど寝てしまっていた。  一人で壁を見ていると、つい嫌なことばかり考えてしまう。だから今一度寄り添い、時が経つのも忘れて翔太の寝息に聞き入っていたとき、鳴り渡ったカウベルの音とともにドアがゆっくり開いた。 「やってる?」  流れ込む半端なくでかいカラオケの音の中で、なんとか聞き取れるほどの声でそう聞く男。思わず、 「あっ、はい」  えっ? そしてまさかの思いでもう一度その男の顔を見ると、「ハッキリ言っとくけど、あんたの車なら今日中古車屋に持っていって処分したからね。私を恨むんじゃないよ」  汐里はその男の目を見つめながらさらりとそう言い放ってから、店内の照明をいっぱいに点けるとカラオケのスイッチを入れた。  男は酔っているらしく、ふらつきながらもカウンター席に向かう。すかさず、 「あんた、今日はお金を持ってるんだろうね?」  これからはそうはさせまいと、汐里が当たり前のことを聞く。  仕事にもありつけず、その日の暮らしもままならないこの男に飲み代が払えるはずがない。だからこそ、今にも倒れてしまいそうな男にそう聞かずにはいられない。汐里も大変なのだ。  そんな声に顔を上げた翔太。遠くから聞こえてきたような会話からして二人は知り合いで、入ってきた男は常連だと思った。翔太にすればこの男の登場は、少し気まずくなっていた雰囲気を取り戻すのに好ましいことである。どんな理由をつけてみたところでついこの前怒鳴った手前、さすがに「自分からは……」、と今にしても思うからだ。  その男はまるでそこが自分の指定席であるかのように、うつむいたまま真っ直ぐ進んでカウンター席の真ん中に座った。思わず尻を上げて壁際の席に移動した翔太。すると、いきなり宙を舞ったおしぼりが男の前に落ちる。 「分かったのかい? あんたの車、約束通り今日処分したからね」 「――水割りおくれ」 「聞いてんのかい、ちょっとあんた?」  そう言う男の横顔を見て、翔太はヒヤッとした。今が信じられない思いである。 「――オチコ?」  カウンターにうなだれる男の耳元に近寄ってそう呟いてみた。そしてもう一度、「オチコか?」  そう言ったときに男は顔を上げ、まるで、居心地のいい男好みの世界からこちらを見ているようなうつろな目付きで翔太の方を見て、 「おっ、おまえ?」  とは言っているものの、本当に分かったのかどうか怪しいものだ……。  すぐ横で飲み潰れているこの男は間違いなく高校時代の親友であるオチコで、だからこそなおさらそう思うのだ。 「いや大丈夫だ。ここでいいよ。ママ、水割りおくれ……」  力ない声でそう呟く岡部。 「はあ~?」  などと言いながらも、汐里は仕方なく薄めの水割りを作ってから、冗談のつもりで灰皿でカウンターをコン、と軽く叩いてみた。思った通りだ。岡部は右手をタコの足のように動かしてグラスを探している。 「まだ出してないんだよ。あんた先に言っとくけど、グラスをひっくり返してカウンターを汚さないでおくれよ」  今度はそうぼやきながらも水割りを差し出すと、岡部は清涼飲料水でも飲むかのように一気に流し込んだ。  その飲みっぷりを見ていると、決して(のど)が渇いているとかそういうわけではないんだろう……。酔っぱらいたいんだ。今すぐにでも忘れてしまいたいことがあるんだ……。  眉を寄せて見つめていた汐里は、ただならぬその飲みっぷりからそう思った。にもかかわらず、割れんばかりに目の前のカウンターに置かれたグラス。 「あんた、今のあんたが大変なのはよく分かるけど、もっともっと大変な思いをしている人は星の数ほどいるんだ! あんたの知らない世界でもね! 翔ちゃん、あんたこの人知ってんのかい?」  ムシャムシャとピーナッツを噛みながら、ママの汐里が聞いた。 「こいつ、高校時代の連れなんだよ。しかし驚いたなあ。まさかこんな所で……」 「ああら、こんな所で悪かったわね。それにしてもあんた、人を見る目がないのは昔からなんだね。こんな男と付き合うんじゃないよ」 「どうしてそんなことを言うんだよ。こいつが何かしたのかい?」 「何をしたかって? この人こんなに酔っぱらっちまってどうせ分かってないんだろうから言うけどね」  汐里は岡部のとは別に、併せて作った自分用のグラスを手に取ると半分ほど空けてから、「私は商売をしてるんだよ。この商売で生計を立ててるんだよ。金も払わないのにしょっちゅう飲みに来られてごらんよ。私だってしたくはなかったよ。でも、うちも結構大変だから仕方なく……。この人に委任状を書いてもらってさ、今日この人の車を処分しに行ったんだ。もちろん、たまったツケを払ってもらうためにね」 「――なんだ、そういうことだったのか。でも汐里ちゃん、それってひどくない?」  すると汐里は顔色を変えて、 「何言ってんだよ! この店もそうだし、カラオケ一式だってみんな借り物なんだ。商売ってものは信用でお金を借りて、それで少しずつでも儲けていくもんなんだよ。あんた翔ちゃん、ひどいってどういう意味よ?」  そう言うと、小皿に盛り付けてあったお菓子やピーナッツを片手で掴み、翔太の顔をめがけて投げ付けた。「帰っておくれ!」  今回が初めてのことではないが、まるでスイッチが入ったかのように一気に激高(げっこう)する汐里。今までよほどの修羅場をくぐってきたに違いない。そんなとき翔太はいつもそう思うのだ。 「違うって汐里ちゃん! こいつのことを言ってるんだよ。――そんなやつではなかったのに」   などと言っているときに、両隣の店から聞こえてくるカラオケの大音量に包まれながら、十人ほどの団体客が入ってきたのに驚いた汐里は、 「あっ、そうだった。私ったらすっかり忘れてた。こんちくしょう!」  と、人差し指で軽く岡部の頭をこづいた。  汐里は予想もしてない翔太との再会で、団体客の予約のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。それに追い討ちをかけるように、よりによって岡部の来店だ。  取り急ぎその団体客の方に向かって、満面の笑みをたたえてお辞儀をした汐里であったのだが……。
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