第5話 過ちと罠

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第5話 過ちと罠

「汐里ちゃん、待たせてすまんかったな」  派手なアロハシャツ姿で先頭に立って、手を上げたまま店の奥深くにやってくる者がいる。 「ええっ、おまえ……?」    先に気付いたのは歩み寄る男の方であった。  一歩ずつ近寄るほどに次第に視線が一つになっていく。 「――和樹?」  予想通りそう聞かれてなおさら驚きを隠せないでいる館林は、その切れ長の目で刺すように翔太を見据えてから一拍置いて、 「――翔太、おまえ家に帰ったんじゃなかったのか?」  よく見ると、その後にぞろぞろと入って来ている客は全員面影だらけだ。それもそのはず、さっきの宴会場にいたメンバー達だ。 『二次会もあるのよ……』  あのときに女ボスの友梨奈が言っていた二次会の会場というのは、ここ【スナック汐里】であったのだ。 「なんだ柳君、この店に来てたの? ふふっ……」  実に意味深なその友梨奈の笑顔に、翔太は何も言わずにただ頷くだけであったのだが、 「汐里ちゃん、さっき電話したときは誰もいないって言ってたじゃないか?」 「それはあのときの話で、それからこの二人が入ってきたのよ。席ならまだたくさん空いてるじゃない」 「ハッキリ言っておくけど、翔太がこの店に入りびたっているという噂は聞いているんだぞ! 付き合ってるのか?」 「それは館林さんには関係ない話です。柳さんはよく来てくれる、私にとってはありがたい存在なんです」  興奮したようなそんなやりとりに、すっかり目を覚ましてしまった翔太。子供ではないのだから和樹が何を言いたいのかぐらいは大方察しが付く。  なぜこのタイミングで飲み会に誘われたのか、予想は当たっていたのだ。つまり、館林がこの店に来なくなったのは翔太と二人で飲みに来てからのことで、館林からすれば、翔太は惚れた女を取った恋敵ということで、あとは周りの連中がどう動くかだ。  入ってきたばかりだというのに慣れた様子で館林がカウンターの中へと入り、何やら汐里とひそひそ話をしている。ちょっとだけ噂に聞いたことはあったのだが、館林はこの店のかつての常連であったということだ。しかし、何を話しているのか翔太にすれば決して良い思いはしないのだが、こちら向きの汐里の表情が全てを物語っている。  金だ。予算の話だ。  どうやら軍配は館林の方に上がったらしい。ここ益川でも「金には細かい」と聞く汐里を口説き落とすのであるから、館林は大したものである。逆に汐里は一変してしまった。館林以上に汐里をよく知っている翔太からすれば、嫌な予感がするのであったが……。 「こいつ……?」  カウンターの中から(あご)をしゃくって、目の前で寝込んでいる男のことを聞きたがっている館林。「汐里ちゃん、こいついつから来てるんだ?」  思ったほどどころか、予想外に値切られてしまったことに対する不満をあらわにする汐里は、 「はあ?」  というだけで、それ以上答えようとはしない。  なら仕方ない。たぶん、おそらく間違いない。そんな思いで館林は男の顔を横から覗き込んで、 「オチコ……」  確信した館林がそう呼ぶのであるが、岡部は死んだように寝入ってしまっていて反応がない。「オチコよ!」  肩を叩かれてやっと目覚めた岡部は頭を上げ、居場所を確認するように辺りをキョロキョロしてから、 「おっ、おまえ。――先に教室に戻っといてくれよ。俺はトイレに行ってから……」  すでにカラオケマイクの争奪戦が始まっていたボックス席から、そんな光景を見ている者達が大笑いしているのだが、明美だけは違っていた。  うなだれていた岡部の手がだらしなく伸びたときに、水割りの入ったグラスを払って割ってしまう。 「もう、だから言ったじゃない。しっかりしなよ、男のくせに!」  すぐにおしぼりで濡れたカウンターの上を拭きながら、汐里が怒っている。  ――岡部はその時我に返った。  そのぼんやりとした表情は、次第に焦点が定まってきたことを確認するかのように自然と辺りをうかがう。目の前の館林と翔太を、それからボックス席のみんなを。すると岡部は何かを思い出したようにいきなり立ち上がり、フロアー中央まで歩み出た。 「あっ!」  それに気付いたのは持ち主の有藤仁美であった。仁美はハンドバッグの中を確かめてから小走りに歩み寄ると、「岡部君!」  目のやり場に困っている岡部を一喝(いっかつ)。    フロアーの中央辺りに(たたず)む岡部の足元に転がっていたのはピンクの財布だ。中身は全て抜かれていたものの、ビニールのポケットに張られた写真だけは取り忘れたのか貼られたままになっている。もちろん貼られていた写真の中には、ニコッと笑って我が子を抱きしめる仁美の顔がある。  すると岡部の顔は赤く色を変え、その恥ずかしさにたまらず小便を垂れ流してしまう。そしてそのまま、 「うおぉぉぉぉぉぉぉ――!」  と叫び声を上げながら、ドアの方に向かって走り出した。 「オチコ! 翔太、おまえはかなり酔っぱらっているからここで待っていろ!」  そう言い残して、慌てて館林と原田が後を追って外に飛び出した。さらにその後を追って次々とほかの者達が店を飛び出していくと、少し行った所で倒れ込んだ岡部が二人の男に(つば)をかけられながら、足やら腹を蹴られている光景が目に飛び込んでくる。 「よせ! やめるんだ!」  すぐに館林と原田が止めに入ると、電線にとまっていた鳥たちが慌てたように飛び去っていく。 「やめてぇぇ!」  狭い路地が騒然とする。  外に飛び出したときに連中とぶつかってやられたのだろう。ドアは内開き。悪いのは明らかに岡部なのだが、館林と原田がこれ以上のことはさせまいと、懸命に二人の若者を羽交い締めにする。それでも、 「こら、落とし前つけんかい!」  大声で怒鳴り上げる若者二人。その声にドアが開いて、若者がさっきまで飲んでいたと思われる店のママが出てきて肩に触れ、二人を落ち着かせる。  ――そんな罵声(ばせい)が飛び交う中でもやがて岡部は立ち上がり、右に左と揺れながらも、正面に見える通りへと歩き始めた。  細い路地の向こうは本通り。週末ということもあって、タクシーやら代行やらがひっきりなしに走り回っている。そしてすぐだった。 「きゃぁぁぁぁぁ――!」  それは急停車した車のタイヤが鳴きわめいた音だったのか、それともそれを見た女の叫び声だったのか、区別がつかないほどのものであった。  道路脇に倒れ込んだ岡部。  ただその後も響き渡る黄色い声は、それだけが別の生き物であるかのように暗闇を切り裂き、ありとあらゆるものに痛みを伝えた。  余りのことに汐里はドアの外にしゃがみ込んでしまった。ただの胸騒ぎではなかったのだ。 「岡部君! 岡部君!」  夜の街に甲高い女の声が響き渡るのだが、それは偶然停車したタクシーに乗り込んだ岡部には届かない。    やはり、良からぬことは起こってしまった。 「もういや。翔ちゃん、私お店やめる!」  それは実に汐里らしい、変わった復縁の申し込みであった。  ――夏近し。六月初めのある日の夜。今年もそろそろ何かが起きてもいいというような、予感めいたものがしていた矢先のことであった。
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