第6話 タクシードライバーの誘い

1/1
前へ
/41ページ
次へ

第6話 タクシードライバーの誘い

 ルームミラーに映る男の顔は両方の頬が青紫色に変わり、口元が腫れ上がって血がにじんでいるのが見て取れる。 「だいぶん派手にやられましたねえ?」  苦しそうに咳込みながらも、電話をかけ終わった岡部にミラーの中の運転手がそう声を掛ける。 「見てたんですか?」  現場から遠ざかったことで少し冷静さを取り戻した岡部が言う。  タクシーは隣町の病院に向かっていた。  当然、益川にも夜間の救急外来はあるのだけれど、飲み会にいた飯田美希がその病院の看護師をしているということもあって、わざわざ隣町の病院へ行くことにしたのだ。  でも、その前に一軒寄る所がある。  夜の国道を走る黒いタクシー。  岡部は暗い窓の外を見ながら、終わった、もう戻れない。と何度も心の中でそう呟いた。    ――やがて着いたのは国道沿いに建つ木造アパート。  近くにはコンビニがあるだけで、ほかに建物らしいものは何もない寂しい所だ。 「恵子か……」  岡部が停車したタクシーの中から携帯で電話をすると、すぐに二階の角部屋に明かりが点いた。  ふらつきながらも硬い音を立てて、鉄製の階段を上ってその部屋の前に着くと、約束通り三回ドアをノックする。すると待っていたかのようにドアが開いたのだが、そのドアの向こうに立っているのは、ノブを持ったまま(あご)をしゃくり上げる男だ。  (ひげ)をたくわえた人夫風の男は、岡部の足元から頭のてっぺんまで威嚇するように眺め上げてから、 「誰だ、あんた? 何時だと思ってんだ?」  そう野太い声で聞いた。 「あんた、手を出しちゃ駄目だよ!」  と岡部が答える前に、中から女の声が……。恵子だ。「私が出るからあんたは入っといておくれよ」  男はその声を背中で聞きながら、じっと岡部の目を見据えたまま、クルッと体をひるがえして奥に入っていった。 「さっきママから電話があったわよ。私、今あの人と暮らしてるんだ」  まさかの事態に岡部の息遣いは荒さを増していく。恵子はアパートの下にハザードをつけたタクシーが停まっているのに気付いた。 「あんたも色々あったみたいだけど、私も同じさ」 「恵子……」 「あんただけが悪いとは思っていない。私たちはこうなるように決められていたんだよ。人生ってのはさよならしかないんだ。みんな一緒さ。別れるために出会うんだ。この前二人してママのところに行ったじゃない。できたら使ってもらえないかなって思ってたんだよ。私、東京ボケしてたもんだから……。言っとくけど今の人、あのとき話した人とは違うんだよ。あのとき言ってた人は、昭月(あきづき)で若い嫁さんと二人で暮らしてるよ。私だって散々泣かされ続けてきたんだよ!」  恵子はゆっくりと表情を曇らせ、涙ぐんだ。  二人ともテレビの音が小さくなったのに気付いている。 「そりゃあ、あんたと暮らしたかったよ。あの頃は好きだったしさ。だから夜の仕事にも出たんじゃないか。でも、いつまで経ってもあんたは働かないし……」  パジャマの袖で流れる涙を拭く恵子。そして、ドアから上半身だけ出すと手にした封筒を渡して、「これで勘弁しておくれよ。もう一度あんたの顔が見れて良かったよ」  そう言うと、下を向いたままゆっくりドアを閉めた。  ――また暗闇の中、階段を下りていく音が物悲しく響く。 「ずっと見てたよ。あんたのこと」  運転手は戻ってきた岡部にそう言った。「あんたも大変だね。どうだい、ラーメンでも?」  ルームミラーの中の岡部は下を向いたまま頷いた。    タクシーは国道を更に西へ走ると海岸沿いのラーメン屋の駐車場に入った。  閉店前にしては結構賑(にぎ)わっている。二人は一番奥の漁火(いさりび)の見渡せるテーブルに座った。 「あんた、本当は病院に行く気なんかないんだろう?」  そう聞く運転手。 「どうしてそんなことを聞くんだ?」 「寂しいんだろう? 誰かと一緒にいないとおかしくなってしまいそうな気がしてるんだろう?」  じっと運転手の顔を見つめる岡部。「俺の誘いに乗ってラーメン屋に来ているのが何よりの証拠だ。それだけの怪我をしているのに、病院に行く前にラーメンを食べていくやつはまずいないからな」 「ああ……」  思わずそう漏らした岡部。 「お兄さん、この人にビールだ。ジョッキでもいいから」  怪我人にビール? 何もかも見透かされているような気がした。  そして酔いも回ってきた頃、 「どうだいあんた、なんだったら仕事を紹介しようか?」 「えっ、仕事?」 「金にはなるぞ。ちょっとやばいけど……」 「やばいって?」 「別にあんたはそんなことを知らなくてもいいんだよ。ただ荷物を車に乗せて運ぶだけだ」  ――何かそんな話をしたような気がした。    目が覚めると岡部はアパートの自室で寝ていた。    なんだ、夢だったのか……?   そう思ってしまうのだが、少しでも動けば伝わってくる体中の痛みがそうでないことを教えてくれる。  カーテンを閉め切ったままの暗い部屋。継ぎ足して長くした電灯の(ひも)を寝たまま引いて明かりを点けると、壁に掛けた時計の針はもう十時あたりを指している。 「あ~あ!」  あくびを一つしてから何気なく背伸びをした岡部だが、手に当たるものに痛さをこらえて体をねじると、そこにあったのは封筒だ……。開けてみると、中には一万円札の束と電話番号が書かれたメモが入っている。  そしてそのメモにはこう書いてあった。  〈良い返事が聞けることを期待していますよ。お互いのためにね〉
/41ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加