第7話 真理の温もり

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第7話 真理の温もり

 ドアを突き破るかのような激しいノック音が聞こえてくるのだが、岡部は布団の中に潜ったまま黙って聞いていた。 「岡部、いるんだろう? ドアを開けなよ!」 「岡部、何をしてるんだ? 出てこいよ!」  そう叫ぶ館林と原田。表からはその他数人の話し声がする。  今度はズボンのポケットに入れたままの携帯が鳴り始めた。外に聞こえるほどの音量ではないが、その騒々しさにおかしくなってしまう。  こんな男でも心配してくれるやつがいる……。  ドアを叩く音がやむと、話ながら遠ざかっていく人の声が聞こえる。  今仰向けになって目をつむっていると、昨日しでかしてしまったことが、まるで昔見た無声映画のように頭の中を繰り返し駆け巡る。  みんなが楽しみにしていたはずの場面にただ一人、裏切るために出向いた自分。この身動きが取れないほどの体の痛さは天罰だとしても、そう思ったまま実行してしまった自分が余りにも情けなくて……。  アパート横の駐車場から次々と車が走り去る音が聞こえてくると、岡部の目からはとめどなく悲しみが流れ出た。  近くの小学校のグラウンドで野球をする声が聞こえる。その声を聞いているとあの頃の自分を思い出し、その分傷ついた今の心から遠ざかることができる。今の岡部にとってはとてつもないプレゼントだ。  でも、少しでも静かになると途端に現実に引き戻され、俺なんか目が覚めなくてもいいんだ。このままずっと……。その方が少なくともみんなのためだ。  などと犯してしまった罪の重さに、たまらず耳を手で押さえてみたりする。    ――またドアを叩く音がする。その穏やかな叩き方からして、たぶん女だ。 「岡部君、聞こえてるんでしょう? 私、真理」  岡部の体を気遣うようにドアの隙間から入り込んでくるその細い声は、閉ざしてしまった岡部の心の深くまで直接届いてくる。「いるんでしょう? 私一人だから。――話があるの、ねえ、お願いだから開けてよ」  そして少しの空白の後、 「私、開けてくれるまでここで待ってます。仕事にも行きません」  その声の主はそう続けた。  うとうととした時間だけが経っていく。確かなことは、野球をしていた子供達の歓声がしなくなっているということだ。 「こんにちは」  同じアパートの人の挨拶に答える真理の声がする。 「こんにちは。何か御用なら私が伝えておきますが」  気を遣うアパートの住人が真理にそう言っている。 「いえ、いいんです。本当に……。すみません」  寂しそうなその声。  岡部が長い紐を引っ張って電灯を点け、痛みをこらえながら布団の上を歩いて玄関に近づくと、ドア越しにわずかに聞こえてきた足音からして、真理が気付いたのが分かる。  誰か男がいるのなら、じれて外からドアノブを回すはずだ……。  だから一度ロックを開けて、またすぐかけてみた。 「岡部君、私一人なのよ……」  その言葉にやっと少しだけドアを開けてみると、今日初めて開けたドアの向こうには、すでに暮れかかった黄昏(たそがれ)色の夕日に染まる真理が立っていた。    布団の中の岡部を見つめる真理。 「岡部君がビールなんか飲むからよ。動かないでじっとしてて。お願いだから……」  真理は告白をしたかったと言う。今までずっと岡部だけを見ていたと言う。岡部の生い立ちはもちろん知っている。もっともっと早く告白したかったのだが、家の事情がそれを許さなかったのだとも言う。  真理の話を聞いて幾分気持ちが楽になった岡部だが、真理は決して岡部が布団の中から出ることを許そうとしない。岡部はあのとき、真理が自分のしたことの全てを見ていてとがめに来たものと思い込んでいたのだが……。  真理にすれば、今度の騒ぎは自分に幸運をもたらしてくれる天からのメッセージだ。経緯はどうあれ、今岡部と二人でいられるこの時間は、真理にすれば夢のようなひとときなのだ。 「自慢じゃないけどお金がないのは私も一緒。考えちゃ駄目なの。今の私と岡部君には病院代を払うお金もないの。だからじっとしとくのよ、じっと……」  子供を諭すようなそんな真理の顔を見ていると、癒しを越えた温かい気持ちが伝わってきて、思わず声に出して笑いたくなる。しかし、今は痛めた体がそれを許さない。だから、岡部にすれば目を閉じて寝ているふりをするしかないのだが、それでも、 「岡部君、聞いているの?」  そんなことさえも許さずに、真理は閉じた岡部の目を無理やり開けさせんとばかりにしつこく聞く。体を動かすことは許さないが、目だけは開けといてほしいと思うのだ。  真理は独身だ。寝たきりの母親と同居しているために、結婚したくてもできないと世間は言っている。それも事実の一つではあるのだが……。 「心配しなくても、じっとしてたらすぐ治るわよ」  真理はそう何度も繰り返した。まるで自分に言い聞かすように……。    ――夢の中の世界を徘徊(はいかい)しているような自分がいる。  真理は岡部を監視しながら、散らかった部屋の片付けを始めた。  何も聞かない。全ては自分のセンスで整理していく。    こんな俺の全てを知りながらも、思い続けてくれていた女がいた……。  次第に心が和んでゆくのが感じられる。  一人じゃない……。  だから岡部は薄目を開けたまま、引き合う夢のような世界に引きずり込まれていくことをやっと決意することができた。  ――ふと気が付けば、体を寄せる人の温もりが感じられる。 『生きて行くのにはお金がいるんだよ。あんたも早く仕事を見つけて働くんだよ』  昨日の恵子の言葉が繰り返し思い出され、頭から離れようとしない。  恵子と出会ってから胸をときめかして告白したとき、そして楽しかった頃を思い出していた岡部であるが、そんな一切を思い出にすり替えるべく、寄り添いたがる温もりをいつまでも抱き締めていた。  数日が経った。  岡部の怪我もだいぶん治り、あれだけ腫れていた顔もほとんど元に戻っている。だからなのであろう、寝たきりの母の様子をうかがうために、ヘルパーがいる以外の時間帯は出入りを繰り返すようになった真理。  反対に言えば、それまではそんな状況を推してまでも岡部のそばにいたかったということだ。 「真理。そんなにお母さんのことが心配なら、いっそうのこと、おまえの家で暮らそうか?」  夕食の支度をする真理の背中に向かって岡部はそう問いかけた。  天井を向いたままの岡部。電灯につけていた長い紐がいつの間にか無くなっている。  少しだけ間を空けてから手を止めた真理が振り向き、 「うん……」  と言う。  どうでもいいように思えた。こうして真理と二人でいると、あのときのことなど誰が何を言おうともう気にならない。  真理がいる。俺はやり直す。真理のために俺は生きていく……。  岡部は心の中でそう誓った。そしてあのメモ帳に書かれた電話番号をコールした。 「はい、もしもし。湯川(ゆかわ)です」 「湯川……」
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